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楽心館15周年にあたって




   平成19年5月5日
   楽心館長石川 智広  


私が30歳で道場活動を開始してから、既に15年を超えています。現在46歳です。世阿弥がその庇護者、足利義満を失い、環境が転落。そしてさらに自分の芸境を掘り下げていった起点が46歳です。自分の歩みと思いを、簡単に文章化しておかなければと思いました。

私の歩み

私こと石川智広は、「神刀柔進会千葉道場」と「氣と丹田の合氣道会 楽心館」の二つを主宰しています。歩みを簡単に記します。1960年(昭和35年)、静岡県出身の両親の許に、東京都世田谷区で生を受けました。

大学法学部卒業、これと前後して臨済宗の禅を学んだり、講道館柔道の稽古に励んだ時代もありました。二十歳のころ、教育者として生きる決心をしました。

二十五歳(1986年)から三十歳(1991年)まで籐平光一先生(心身統一合氣道創始者)の内弟子として、藤平光一先生・丸山維敏先生(合氣道・唯心会)の指導を受けました。三十歳から内弟子卒業生として、心身統一合氣道の道場長を勤めました。楽心館という名称は、この頃から使用しています。記録上、平成5年5月5日を楽心館の創立記念日としてあります。子供の日に、世界の子供たちに役立つために、そんな思いでした。新しいものには新しいものの良さがあります。古いものには古いものの味わい深さがあります。能・狂言・舞踊、どれをとっても日本の身体文化は「氣と丹田」の働きの妙用です。三十五歳(1995年)で心身統一合氣道会を辞職し、その後さまざまな門戸を叩きました。佐藤金兵衛先生(山本伝教授代理)が創立、会長をつとめた国際柔術連盟にも学びました。のちに種村匠刀先生が会長になり、指導を受けました。1999年、佐藤先生逝去に合わせて退会しました。大正大学合気道同好会が主催する演武・講習会「伝統武道と合気道」で、交流させていただいた先生方には、大きな刺激・影響を与えられました。

現在、宗主 長尾全祐先生(山本伝教授代理)の許、大東流山本角義派・無限神刀流居合術(会津伝小野派一刀流・棒術・真剣術)の保存に参画し、神刀柔進会千葉道場を指導。ここでは昔のものを昔のままに、保存継承することが目的です。山岡鉄舟居士は「述べて作らず、古を好む」と申されましたが、古を考え古きに学んでまいりたいと思います。

合氣本来の力抜きの手・身体を、教育と健康法として活用すべく、「氣と丹田の合氣道会 楽心館」を主宰しています。ここでは、一般の皆さんが合氣を理解しやすいように、自分が受けとめたものを順序だてて説明をするようにしています。技は大東流と現代の合気道が未分化であった時代のものしか行いません。力抜きの身体、それに伴って変わる心を人々に伝えたいものです。45歳になって、やっと自分の勉強の方向をつかめました。

神刀柔進会千葉道場と楽心館は、合氣において違いはありません。剣の理合、一刀流の「一」です。そしてその一に徹すると、二にも三にも繋がっていく。これを一刀即万刀に通じる。と教えます。私はこのような万刀(ばんとう)の実践が、世を照らす万燈(ばんとう)になればよいと思って精進させていただいています。
 兎にも角にも、我々の稽古では、一刀の一が玄関。入り口であり、出口。初歩の一手であり、極意。
 武は自力本願の側面があります。しかし技が掛かるのは、こちらの誘い通りに、相手が正確に打ってくれるからでもあります。相手が思い切り抑えてくれば、「抑えてくれてありがとう」という気持ちで、接点を動かさず、そこに入り身になるしかありません。ここをみれば、他力本願。武道は結局、人と人のやり取りの中で、成立した作業に過ぎません。そしてそれは社会の成り立ちと同じことです。
  何も自分一人が、努力しているのではありません。多くの方々に、助けていただきました。長い間稽古に参加してくださった方々、面倒見のよい妻のお陰が大きいのです。
  感謝の心、ここに一刀即万燈に通じる道があると思います。末筆ながら皆様に、心から感謝を申し上げるしだいです。


  一燈(いっとう)を掲げて暗夜を行く、暗夜を恐るるなかれ、一燈は一刀。













(社)楽心館

当会は、一般社団法人 楽心館 RakushinkanOrJp 所属 東京都、千葉、埼玉、茨城、京都、カナダカルガリーの合気道道場です。