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石川先生から表題について寄稿を求められ、植芝合気道についてさほど詳しくない、一介の大東修行者が植芝盛平を語ることは、おこがましくて到底できることではありませんが、逆に大東流の側から見た植芝盛平論は少しは紹介できるかもということで、拙文をお届けすることにしました。
合気道修行者の方には、大東流という名前自体も耳にされたことがないかもしれません。特に武術マスコミに合気道の源流が大東流にあるということを暴露されるまでは、合気道側自体からその事を必死になって隠蔽したり否定していた時期があったから、なおさらのことです。開祖、植芝盛平が大東流を修行していたことを否定するために、開祖の古い写真に「大東流」の文字があるのをマジックで消して掲載するなど、あの手この手を使っていたものです。
そのことがだんだん明らかになり否定できなくなると、「確かにそういうこともあったが、柳生(心眼流)の影響の方が強い」などと噴飯ものの言い訳までしていたのですから、ある意味で悲しくなります。
確かに開祖を祭り上げるためには、殺伐たる柔術がルーツであることは秘しておいたほうが無難ですし、晩年の開祖が大本教の強い影響を受け宗教色の濃い合気道に変えていったことも、別の要因でもあったかもしれません。
また大東流界で公然とささやかれる、武田惣角と植芝盛平との金銭問題に端を発した不仲説や、大本教の出口王仁三郎をはさんでの確執などもその遠因なのかもしれません。 しかし私は、それ以外に両者の生き方・考え方の大きな違いが、両者の溝を決定的にしたのではないかとも考えています。それは武術を生きる糧とし、生涯を一武芸者として送った惣角と、武道家の枠にとどまらずいわば宗教家・哲学者の道を選んでいった植芝盛平の、決して交わらない二人の直線であったのではないでしょうか。
武田惣角は子息や高弟達が語ったことを総合すれば、あくまで単なる武術家であり、大東流を武術としてしか捉えていなかったと思われます。確かに「合気で・・・・をした」とか修験者などが使う観相術めいた不思議な能力を持っていたという伝説もありますが、あくまで術の一つであり、それを教授内容の根幹に据えたことは一度もありません。
その武田惣角からすれば、「植芝盛平が晩年に行き着いた境地などは自分はまっぴらご免だよ」と言うかもしれないなあ、とさえ思わせるくらいに武術家として即物的な生き方をしたのが武田惣角であると言ってよいでしょう。
そんなに高額な月謝はとっていなかったと子息の武田時宗氏がどんなに抗弁しようと、他の高弟の思い出話からは、かなり高額の謝礼を取っていたことは紛れもない事実ですし、それをいわば一銭も家に入れず、家族の生活を長男(戸籍上、実際は後妻の三男)である時宗氏が支えていたのも氏自ら語っているのですから。今の常識からすれば、多分に放蕩親父だったようです。まあ家族にとって放蕩親父であったかもしれない点では植芝盛平も同じかもしれません。
しかし精神的な面では両者には大きな隔たりがあります。どちらが高尚でどちらが・・・・・・などという議論は浅薄に過ぎます。両者はそれぞれ彼ら自身であったに過ぎません。技術的には植芝盛平は遠く武田惣角に及ばず、哲学性や宗教性では惣角にはそのかけらさえなかったかもしれないのですが。
両者の道はある時期交わっていたのですが、やがて遠く離れ再び交わることはなかったように思えます。
晩年近くの武田惣角が「(頭の)えらい奴は勝手に(大東流を)変えてしまった」と嘆息したそうですが、それは誰の事を指していたのでしょう。