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植芝先生の合気

この欄は、楽心館をお預かりさせていただいている石川智広が担当します。

はじめに

合気道とは、武道各流派・諸宗教を学ばれた植芝盛平先生が、「九鬼さむはら龍王」を立てて起こされた武道をいいます。植芝先生が学ばれた武道には、起倒流(別説に天神真楊流)・新陰流・講道館柔道・銃剣術・宝蔵院流槍術・柳生心眼流(江戸伝)・大東流合気柔術・九鬼神流等があります。また学ばれた宗教には大本教・九鬼神道・白光真宏会がありました。この欄では、植芝先生にとっての合気についてご案内したいと思います。

この欄では植芝先生の口述録にもとづいて、お話を進めさせていただきます。神道的な用語の使用や世界観が多く出ざるをえないのはそのためです。もしそれが他の信仰や主義をおもちの方に疎外感を与えることになると、それは私の真意ではありません。私たちの稽古は、特定の信仰や主義にもとづくものではないからです。今日、カルト宗教による反社会的活動が問題になっています。これは自己決断できない人々が、教団の教義に自らの思考を委ねてしまうために起きている側面があります。一言でいえば宗教的なものの中に逃避しているのです。本来の宗教は、人の自立を促すものと思います。ですからここでは、擬似宗教を「宗教的なもの」と呼びました。同様に、社会的に自立できない人が、「武道的なものの中に」逃避している例を散見いたします。「武道的なもの」と「武道」は別ものです。武道は「独立自尊」を実践する道です。立身流の達人であった福沢諭吉先生は「一身独立し、一国独立す」といっています。一人ひとりが精神的・身体的・経済的に独立していくことなくして、世の中の救いはありません。

改めて確認させていただきますが、私たち楽心館は、特定の信仰や主義にもとづくものではありません。

植芝先生口述録である、『武産合気15版p.51』によると

「剣を使う代わりに、自分のいき(注1)の誠をもって、悪魔を祓い消すのである。つまり魄(はく、注2)の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な魂の花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。そして経綸の主体となって、この世の至善至愛なる至誠にご奉公することなのです」

とあります。簡単に申しますと体主霊従が霊主体従になることが合気である、とおっしゃっているのです。これと同意で「ひれぶり」・「三千世界一度に開く梅の花」という言葉もよく用いられています。

(注1)「いき」とは「生き」・「息」・「粋」に通じ、『旧約聖書』の「創世記第二章」の息(霊)と通じる発想。

(注2)魂を入れる器としての肉体のこと

1、「ひれぶり」・「三千世界一度に開く梅の花」

合気道開祖「植芝盛平」先生は、大本教を始めとする諸宗教に、大変篤い信仰心をおもちでした。稽古の最初には祝詞(のりと)をあげ、法話を長くされたといいます。むしろ神々の話が余りにも長いので、お弟子さんたちは、むしろ「また、話が始まった」くらいにいっていたようです。中には信仰をしなくとも合気道はできるとおっしゃる方もあります。確かに信仰心はなくとも技を行なうことはできます。しかしそれで道といえるでしょうか。稽古をとおして心の奥底の本体を会得することを見失った合気道は、人間形成の道とはいえないとおもいます。

植芝先生が技を始める前によくおっしゃったという言葉に、「三千世界、一度に開く梅の花」というのがあります。これは大本教開祖の「出口なお、の『お筆先』」に由来します。この言葉について解説をいたします。「梅の花」とは実在の梅の花をいっているのではありません。世阿弥に「風姿花伝」という世界に誇る芸能書があります。ここにもよく「花」が使われています。「時分の花」・「誠花」と、人の心の核心部分を花と称しているのです。核心とは、菩提心・霊性心・神聖・宇宙意識といってよいでしょう。「梅の」とは修飾部分で、「格調高い香(かぐわ)しい薫りのする」と、人間の本体を崇めているのです。「三千世界、一度に開く」とは、他に同じことを教える言葉があります。「桃李物言わざれども、下自ずから蹊を成す」です。「知る者は言わず」というように、人間の本体を覚ったものはそれを語る必要がないのです。「物言わざれども」その人の徳性は、「格調高い、香しい薫りのする」ものなのです。人びとはそれに引きつけられ薫化されるのです。これは人間の本体を覚るという自己形成が本物であれば、それは即、人びとを薫化するという社会形成と一体となるのです。これを「一点梅花の芯、三千世界に芳ばし」ともいいます。

植芝先生ご自身のお話によると、次のようになります。

「この世は悉く天之浮橋なのです。ですから各人が、信仰の徳によって魂のひれぶりができるのです。表に魂が現れ、魄は裏になる。今迄は魄が表に現れていたが、内的神の働きが体を造化器官として、その上にみそぎを行なうのです。これが三千世界一度に開く梅の花ということです。これを合気では魂のひれぶりといい、又法華経の念彼観音力です。私はその最初の産屋(うぶや)となって立つのです」(武産合気p.67)

(参考)天台宗には「一念三千」という教えがあります。これも悟りの境地を教えたものです。この場合の三千とは、「過去・現在・未来の三世界」とか「須瀰山(しゅみせん)の人間界・仏界・天上界の三世界」を意味します。植芝先生にとっての三界とは「過現未」(かげんみ)や「顕幽神」(けんゆうしん)を意味します。

本当の悟りは時間と空間を超えていくということです。簡単にいいますと一つの言葉や行ないに対しても、そのことの意味を過去・現在・未来につながる因縁の中で把握できるということです。例えば囲碁の名人は、現在の布石を見れば、何十手もの先も、前も知ることができるのと同じことです。現在から何十世代先の未来世・過去世を見渡して、今の一念を誠心誠意生きることが悟りの境地なのです。植芝先生は「三界を正しく整え、守ってゆく」とおっしゃっています。

2、植芝先生の氣

植芝先生が直接「氣」について説くことは、少ないように考えられがちです。しかしよく勉強してみると、植芝先生が繰り返し説いている「正勝吾勝勝速日」、「天之御中主ノ神」、「宇宙と人体は同じものである」、「顕幽神三界にわたって和合し、この三界を正しく整えて守っていく」とは、すべて氣を説いているとも考えられます。

武産合気p.170に「合気修業の方法について」のなかに

「氣体・流体・柔体・固体と四つに分ける。四つの全身各機関に対して、四つの氣魂のひれぶりが必要である。この氣体の氣でも、大神のみ姿に神習うて人一人の姿の各部の氣の稽古をして、表裏のない魂の実在のひれぶり、その霊のひびきを明らかにし、速やかに実在のもとに現わしてゆくまで、氣の稽古をすべきである。氣の稽古は至誠の信仰であり祈りであります。」

とあります。私が現在解釈できる範囲で、ご説明したいと思います。

「氣体・流体・柔体・固体と四つに分ける。」とあります。この上に氣の世界があると考えられます。ですから宇宙は、あるいは宇宙の経綸は1、氣の世界。2、氣体。3、流体。4、柔体。5、固体と五つに分けられます。

一、氣の世界とは、天之御中主ノ神のことで宇宙神といったものの意味です。

二、氣体とは、天之御中主ノ神から人間各人に分けられた霊のことで、分御霊(わけみたま)のことをさしていると考えられます。また顕幽神(けんゆうしん)三界という時の神界にあたります。怒り・憎しみ・妬みのない最も純粋なエネルギ−のことを指します。宇宙意識ということもできます。

三、流体とは、氣体を包んでいるもので、顕幽神三界という時の幽界にあたります。人間にとっての潜在意識のことです。プラスの因子のみならずマイナスの因子も含まれています。マイナスの因子を一般に業想念といいます。植芝先生は簡単に「縛」といっています。人類は世代を重ねるごとに、業想念・縛が強くなっていて、今日を「末法の世」と出口なお大本教教祖も植芝先生も呼んでいます。

四、柔体五、固体ともに顕幽神三界という時の顕界にあたります。顕在する世界という意味で、肉体・物質として現れている物の世界です。柔体は植物や肉体のことで、固体は鉱物等になります。宇宙の経綸の中で最も重く汚れた地位をいいます。

したがって一、氣の世界。二、氣体。三、流体。四、柔体。五、固体と五つの配列は、エネルギ−の軽く純粋なものから、重く汚れたものへの配列になります。ちょうど五階建てのビルでは、最上階に近いほど都会の喧噪から離れて、軽く純粋な「氣」の世界となることと同じことです。次に「四つの全身各機関に対して、四つの氣魂のひれぶりが必要である。」とあります。これは合気道の稽古で四つの全身各機関を禊祓(みそぎはらう)ことで、本来の自己である汚れないエネルギ−である氣体が、流体・柔体・固体を貫通して表に現れる必要があるということです。このことを指して、「宇宙と人体は同じものである」、「顕幽神三界にわたって和合し、この三界を正しく整えて守っていく」と表現しているのです。勝速日について植芝先生は「時間もない空間もない、宇宙そのままだけがあるだけなのです。」と武産合気p.191に説明しています。日は火でもあり霊(ひ)でもあり、神を意味していると考えられます。「正勝吾勝勝速日」とは、「正に勝つ、吾に勝てば、神は速やかに過去・現在・未来、顕在界・幽界・神界に渡って現れる」と読むことができます。これが「三千世界一度に開く梅の花」であり、植芝先生の説く氣なのです。(これについては諸説ありますが、あくまで私の解釈です)

注勝速日とは正式には、天押穂美々命(あめのおしほみみのみこと)につけられた枕詞の一つであり、「正勝吾勝勝速日天押穂美々命」という。

3、植芝先生の合気

植芝先生の合気は、武道としての理合い・型、とか理屈をぶち超えて、宗教的境地を意味しています。植芝先生にとっての氣とは、最も純粋な想念のエネルギ−のことを指します。宇宙意識ということもできます。そして、体主霊従が霊主体従になることが合気道の稽古の目的であると、おっしゃっています。今日の私たちが、植芝先生のような篤い宗教心をもって日々の稽古に望むことは、大変高い目標になってしまいます。

しかしわが国は、バブルが崩壊し道徳の退廃が指摘されています。物が豊かになりすぎ、心が見えなくなっていたところへ、その物の豊かさが崩壊しつつあるためです。

21世紀の合気道はどのようにあるべきなのでしょう。私はいろいろのものがあって良いと思います。「植芝先生の合気」・「合気道を学ぶ目的」を踏まえながら、どのような人々に、どの部分を強調していくかによって、いろいろなありかたがあるとおもいます。護身の法・調和を表わす芸術性・宗教的境地の三つのバランスの取り方は、21世紀の人々が選んでゆくことになります。

私個人としては、合気道等の武道を、「我を生かし、人を生かす」道として、青少年の教育に取り組んでまいりたいと思います。そしてこれを生きる規範(生きるものさし)として、世の人々に広めてまいりたいと思います。

心楽しめば氣が和らぐ。
自ずと我を生かし人を生かし、
平凡道を非凡に歩む。
結果、人の歩む道を心楽しむ。

これが私たちの道場を楽心館と命名した由縁でもあります。

(参考)ひれぶり『新辞林』(三省堂)の「ひれぶりやま」の見出しに、「鏡山(かがみやま)の別名とあります。「鏡山」の項に「大伴狭田彦(さでひこ)が任那に船出する時、松浦佐田姫がこの山に登って頒布(ひれ)を振って別れを惜しんだという。」とあります。察するところ「魂のゆれ」ぐらいの意味でしょう。

4、植芝盛平先生道歌

  • 真空の空のむすびのなかりせば合気の道はしるよしもなし
  • 合気にてよろず力を働かし美しき世と安く和すべし
  • 天地に氣むすびなして中に立ち心がまえはやまびこの道
  • 合気とは万(よろず)和合の力なりたゆまずみがけ道の人々
  • 合気とは愛の力の本にして愛はますます栄えゆくべし
  • まねきよせ風をおこしてなぎはらいねり直しゆく神の愛氣に
  • 正勝吾勝御親心(おおみごころ)に合気してすくい活かすはおのが身魂ぞ

合気道五か条

  • 一、合気道は宇宙万世一系の大いなる道なり。総てを包合しつつ統合しゆく理念なり。
  • 一、合気道は天地の授けし真理にして、根の国の活用大切なり。
  • 一、合気道は天地人和合の道と理なり。
  • 一、合気道は各自が適宜その道に従いつつ行じ、大宇宙と一体となりて完成す。
  • 一、合気道は宇宙弥栄(いやさか)を無限大の完成に導く大愛の道なり。

5、合気道が世界に広まった時代背景

第一次世界大戦では多くの若者が死に、二度と戦争を起こしてはならないとの誓いのもとに国際連盟・ワイマ−ル憲法が制定されました。

それでも第二次世界大戦は起き、ドイツを中心に愛を説くキリスト教徒と称していながら相互に殺し合いをし、何百万もの犠牲者をだしました。戦前に実存主義哲学を主導したハイデッガ−、ヤスパ−スらは、自身がキリスト教徒ながらナチスに思想的に抵抗しませんでした。そのナチスはユダヤ人をアウシュビッツ収容所へ送り、人体から石鹸などを作りました。

フランスはアルジェリア独立を阻止するために、凄惨な拷問を繰り返しました。

戦勝国アメリカといえども、軍需産業が肥大化しました。冷戦・ケネディの暗殺・ベトナム戦争・人種差別・ドラッグ・貧富の差別化。富めるとともに病めるアメリカは、10年に一度づつ戦争をして国家を維持している状態です。

いうまでもなく日本も先の大戦では多くの戦争犯罪を犯しました。今だ政治家の中に、その犯罪行為を否定する発言が繰り返され、世界から戦争の精算が済んだとは認めれていません。打ち上げても打ち上げても墜落するH2ロケット、いつまでもなくならない官製談合、警察・病院不祥事、切れる17歳。歩ける老人が病院へ入ると手足を縛られる。先進国で唯一死刑が執行されています。恥の心は失われ、責任回避が蔓延しています。日本の科学技術・巨大組織を担う人の倫理観が、広範囲にわたって崩壊しつつあるように感じます。

こうしたヨ−ロッパ・アメリカの歴史を背景に、キリスト教は宗教的無力さ、自信喪失の状態になったといえます。一般大衆は、日曜日の礼拝に行っていた「自分自身はいったい何なのか」と、東洋的平和的「無」を求める心に、より接近し始めたのではないかと思います。一方、欧米ではニヒリリズムが蔓延していると思います。

こうした人びと、特に心ある人の中から、東洋的なものの中に心の安らぎを求める傾向が生じてきました。その対象の一つとして日本的武道・芸道があります。彼らは正義と邪、白と黒、勝と負け、プラス思考とマイナス思考のように二元対立する世界に疲れきっていました。勝ちと負けにこだわることが戦争に通じ、世界の終末にもつながるのです。彼らは、あくまでも富や効率の向上を求める人類の方向を変えなければならないことに、気づいていたと思います。ところがやってみると、武道もスポ−ツ競技化して勝負にこだわったり、格闘技のようになっていました。

その点、合気道は和・調和の精神であり、結果よりもプロセスを重視する武道でした。合気道には「武道を通しての宗教的境地」、「格闘技でない武道」があるのです。

6、武田惣角先生と植芝盛平先生

植芝盛平先生は武田惣角先生へ、大変礼を尽くされたと思います。北海道の住まいを提供したり、刀剣を贈ったり、京都の大本教への逗留を世話したりされました。

武田惣角先生からすれば、金銭的なことで不満があったり、何よりも「合気柔術」の名称を「合気道」と改めたことに激怒されました。

しかし当時は、時代背景として「柔術」を「柔道」。「剣術」を「剣道」と、「術」から人間形成の「道」へという趨勢があったように思います。人間形成については、このホ−ムペ−ジの「合気道を学ぶ目的」の欄をご覧下さい。

7、今日の合気道

いろいろな分け方があると思いますが、ここでは大きく二つに分けさせていただきます。

前期合気道と称しても尚、武田惣角先生から学んだ大東流を忠実に教えていた時期

一人ひとり組んで教授した時期、終戦の後しばらくまで。よく岩間時代といわれます。

合気道として植芝先生の大東流を受け継がれた方々

  • 久琢磨先生(後に武田惣角先生・山本角義先生からも学ぶ)
  • 佐藤金兵衛先生(他に奥山龍峰先生・山本角義先生・大庭一翁先生からも学ぶ)
  • 塩田剛三先生
  • 富木謙治先生(後に山本角義先生からも学ぶ)
  • 望月稔先生
  • 白田林二郎先生
  • 斎藤守弘先生

後期合気道の組織としての拡大期

流体稽古・呼吸投げを中心とする演舞や集団指導をした時期

合気道の教えや歴史から、大東流や武田惣角先生を消したものを受け継がれた方々

  • 植芝吉祥丸先生
  • 藤平光一先生(後に中村天風先生より心身統一法を学ぶ)
  • 砂泊誠秀先生

他にもここに掲載してない多数の、立派な合気道指導者がおられます。紙面の都合上割愛させていただくことをご了承ください。


参考

  • 合気道開祖植芝盛平先生口述武産合気 高橋英雄編著白光真宏会出版部 15版
  • 合気道開祖植芝盛平伝 出版芸術社

適切なご助言をいただいた、本会親睦会長滑川明彦、本会八日市場道場僧侶 大津永聖に感謝を申し上げます。




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