稽古終了後、袴をしゃきっと伸ばし、ヒダを揃えてホコリを払い、帯をたたんで、風呂敷に包む。
わずか3分ほどの行為に、気持ち良さを感じるのは、なぜだろう?
思えば、少年時代、町は豊かになり、家はコンクリートに、畳はフローリングに、布団はベッドに、押入れはクローゼットに、という具合に、急激にライフスタイルが変化しました。
それが新しい時流なんだと疑わずに。
かつての暮らしは、すっかり日本文化論の「耳知識」に追いやられました。
「暮らしの中の日本文化といえば、”包む、たたむ”。衣服はきちんとたたんでタンスにしまい、布団はたたんで押し入れに。また、「たたむ」を基本にした日本の調度品には、扇子・提灯・屏風があり、風呂敷、蚊帳、三面鏡など、たたんでしまえる便利な生活道具がたくさんありました。日本人は狭いところで暮らす智慧がたけていたんですね」・・といった具合。これじゃ受験勉強の知識ですよね。
世間の風景は一変し、”包む、たたむ”は、(むかしむかし・・あったとさ)の世界へ。
それから半世紀。合気道で・・袴をはくようになりました。(やはり、面倒そうなので、避けていたんです)
袴の形態や機能性といった表側だけしか見えていなかったんですね。稽古に通うのに、お荷物になるし、動きづらそうだし。その象徴が、(袴をたたむ)行為だったわけです。
それが今は、たたむことに気持ち良さを感じて、自宅でも時々履きます。息抜き効果もありますし。
なぜ気持ちよいのか、自分でもよくわからなかったのですが・・最近ふと、わかった気になりました。
自分流の(仮説)は、こうです。
袴をたたむ動作を通して、実は、自身の身体と宇宙の”アラインメント”(整列構造)を合せているからに違いない!
自分の体軸と袴の中心線が整列していく、その気持ち良さ!
稽古の前に拝礼するのも、仏壇の前で先祖の霊に合掌するのも同じ流れ。宇宙の規則性と自分の身体、呼吸のアラインメントを合せている。空間的にだけでなく、時間的にもね。
(今自分はしかるべき時間に、しかるべき場所に、いるべき人とともに在る)
その感覚が・・気持ち良さの正体なんです。
自分は今、ごく限られた時空間にいる極微粒子のような存在だけれど、自分が生まれる前も、自分が死んだ後も、時空を貫く一筋の『流れ』があり、自分はその広大なものの一つの構成要素であるのは間違いない。