(一社)氣と丹田の合氣道会 楽心館

歩きスマホが奪う“気配”の感覚──現代人が忘れた本能と武道の教え

黄昏時の駅前の路地裏で、歩きスマホ&イヤホンの若い女性とすれ違う。
(おっと!)ぶつかる寸前、こちらが回避したが、彼女はそれさえ気づかぬように去って行った・・

こちらに害意があれば、なんの抵抗もできなかっただろう。
人が動物として持っているレーダーの電源が切れてるならば(切ってるならば)、彼女がこの先、災禍に巻き込まれずに無事で生存できる確率はかなり低いとみなければならない。

アフリカのサバンナで、ネコが腹を見せて寝てるようなもので、1日とて生き延びられまい。
でも・・あたりを見回せば、同様な方々ばかり。

歩きスマホが(珍しくもない風景)になってしまうとは・・。
周囲と隔絶して歩くことが、当たりまえだとは。

いつなんどき、暴漢がすれ違いざまに金品を奪うかもしれない・・
後ろから羽交い締めにさえるやもしれない・・
交通事故はもちろん、テロに遭遇するかもしれない・・
田舎のあぜ道だって、マムシを踏んでしまい、逆襲されるかもしれないのだ。

むろん、人は四六時中警戒しているわけにもいくまい、
それでも、万一遭遇した時は、出来る限りダメージを少なくしようと人は本能的に微弱なレーダーを放って気配を察知し、異変に備えてきた。

動物の中で決して強くない人類は、気配を察して生き延びてきた生き物だった。

剣術の基本稽古で、剣の打ち込みへの反応訓練がある。
いや、剣の動きが見えてからでは間に合わないから、反射神経というより、動き未満の「気配」を察知する稽古である。
真剣であれば命がないのだから。

動きの「起こり」、剣先の動きや、手足や目の表情が表面的な手がかりだが、相手が手練れだと、ほとんどどこにも信号を出さずに剣が飛び出てくる。

これまでの経験でいえば、視覚や聴覚で感知しようとしても、まず間に合わない。
(相手の内部で発動される“打ち込め”という微弱な信号)を、全身でなんとか察知するほかない。

「起こり」の気配を捉えるというわけだが、こちらのコンディションが悪ければ、不可能だ。
全身の皮膚細胞を「目」「耳」にして、対応するほかないのだから。

むろん、今の世の中で、真剣が自分に向かって振り下ろされるといった死活を分ける状況に出くわす確率はほとんど少ない。

しかし、事故や事件に巻き込まれる可能性は、都会ではかなり多い。
気配を察すれば回避できるチャンスはあるのに、気配に無感覚だと、災難圏に足を踏み入れてしまうことは、かなりの確度で生じる。

たとえば、頭上のクレーンで鉄骨を吊りあげている工事現場。
歩道に赤いコーンが置かれ、警備員が誘導し、歩行者の動線を規制しているが、現場が狭いと、万一鉄骨が落下したら、直接間接歩行者に危害が及ぶことは充分ありうる。

通り過ぎる際、クレーンの動きや吊られた鉄骨のバランスなどに(・・何かヘンな違和感)を感じたら、危険が顕在化する前に、その直観に従う。

万一、ワイヤーから鉄骨がずり落ちた場合でも、回避できるだけの間合いをあけて、大回りで通りすぎよう。
そのとき、歩きスマホでいたら、寸分の回避行動もとれまい。

毎日、(不慮の事故、事件)などの厄災がどこかで起きる。
交通事故、火災、通り魔、ひったくり、詐欺、暴行・・

ほとんどは、起きる直前、大なり小なり、微細なシグナルがあったはずだ。
(よくわからないが、なんか、ヘンな感じ)・・をキャッチし、(遠回りでも迂回していこう)的な危機回避能力は、現代では一層必要になっている気がする。

逆に、一般世間で人の気配を察することは、相手への気遣いでもあった。
狭い路地ですれ違う時は、先に気付いた方が相手を先に通してあげる。

見知らぬ者同士であっても、アイコンタクトで、(お互いさま)(ありがとう)と交わし合う。
そんな他人を気遣える者が大人とされた。

それが社会で生きるセキュリティーにつながったし、(つながり)感覚が心地よかった。
家庭や職場での対人関係でも「気配り」が大切だった。

それができない者は、「気が知れない」「気が利かない」者として、気味悪がられた。

合気道のみならず、武道はそもそも、身体感覚を最適化しておき、どんなことが起きても、居着くことなく、身体が自然に反応できることが稽古の大きな眼目。

たとえ武道に縁が無くても、家庭や職場で、「気配り」をルーティン化して身につけることは、コミュニケーション上も有効なトレーニングになるだろう。
わたしは、もっぱら、「ボケ防止」ですが・・・

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