人様には言えない程ばかばかしいことで腰を痛めてしまい、稽古当日の朝、合気道の稽古を休もうと思ったが、(いや、待てよ、どこかにしまってある腰のコルセットをすれば歩くのにさほどの支障はないだろうから、行ってみて、皆の稽古を眺めていよう)と思い直した。
まだ誰も来ていない武道場に入り、腰をかばいながら正面に座礼をすると、それだけでなんとなく場の空気が変わり、こちらまで浄化された気分になるから不思議だ。窓を開けて換気扇を回し、熱中症対策に大型扇風機を据えて回す。稽古着ではないが、身体が天地の軸とずれていないか、身体が自動的にスキャンしはじめる。楽器をやる人がまず、チューニングを正確に調えることから始まるのと同じこと。
ここは、公共施設の武道場だから、正面に神棚はないが、いつも、先生以下、何もない正面に向かって整列し、座礼をしてその日の稽古が始まる。見えないけれど、「神前の礼」は、稽古の始まりと終わりに欠かせない。事実、そのマインドセットが、ケガの防止にも大きな役割を果たしていると思う。
しかし、道場を利用するものは我々だけではない。他の団体が、座礼もせず、使い方が粗雑だと、なんとなく、ロッカールームまで見えないゴミがたくさん落ちてるように感じ、胸が悪くなる。場に対する十分な敬意がないと空気が粗くなり、身体感覚も悪くなる。そんな中では、受け身一つとっても、稽古にならないだろう。
合気道に限らず、武道は、身体感覚が生命線。身体感覚は、場の持つ微妙な空気の変化にも敏感に反応するようだ。座礼すると、日常とは別の身体モードが作動しはじめる気がする。その上で、自分の体をモニターしながら、心身を調律しておくことが、術技以前のセッティングとなる。いや、普段の暮らしの場でも、そのはずだ。
こういう話は、わからない方々にはなかなかわからない。私自身、老いたけれども、生身の人間としての直感で、しみじみ思う。昨今は、学校も病院もお寺さえ「経済合理性」ばかりで語られるご時世、かつての武道もほとんどが、競技スポーツになってしまった。東京オリンピックへ向けて、ますますメダルのことばかり人の頭を占めるようになる。勝ち負け、損得など、世俗の経済合理性のしがらみに、縛られすぎねばいいのだが。
誤解を恐れずに言うならば、霊的な成熟度を少しでも高めることこそ、生きていく尺度ではなかろうか。道場の片隅で稽古を眺めながら、なぜ合気道には試合がないのか、改めてわかる気がした。
神社に参拝してすっきりした気分を身にしみてわかっているシニアこそ、この武道場で自らを浄化していってはどうか、と思う。神前の礼で、心身が微妙に変化するのがおわかりになるはずだ。霊長類である人間は、そのように構造化されている、厳然とした事実を感じられるに違いない。せっかく生かされているのだから、それだけでも、体験してみてはいかがだろう。