(一社)氣と丹田の合氣道会 楽心館

合気道の稽古が教えてくれた“思い込み”の正体と人生を変えるイメージ力

稽古を繰り返す中で

目うろこだったことの一つが、思い込みや錯覚を修正するための(イメージ動作)とでもいうべきものだった。

性質歩きから単純な体遣いの隅々に浸み込んだ、力や加速という(盲信)の書き換え作業だ。

しかし、やがてそれは単に、体遣いや合気道の動作にとどまらず、自分の心身に潜む、日々の(思い込み)(勘違い)(錯覚しがちな習性)、ひいては生き方そのものの思い込みに否応なく気付かされ、冷や汗が流れた。

いや、決して大げさなことではない。

それほど、人は、ばかばかしいほどの(思い違い)をして人生を重ねている現実を直視せざるを得なくなる。

稽古では、技の基本を習得するために、様々なイメージ、

(根が張った松の木を倒すつもりで)・・
(指先で相手をけさがけにするつもりで)・・
(豆腐を切るように)・・

などと、動作の質や量、軌道をイメージで伝える。

矯正する対象の一つは、(脱力)するための意識だ。

脱力しなくちゃといくらふんばっても、脱力できないことはこれまでも述べてきたが、意識を他のことに向けて動作すると、結果として、脱力できていることがある。

また、(等速直線運動)を身に浸みこませる動きがある。

相手が両手を突きだし拳を握る。こちらが、両手で拳を押し返す動作だが、相手が構えてると意識すると、どうしても、(えいやっ!)と反動をつけて加速したり、腰を使って力をふるう動作になる。

それがかえって、相手の抵抗を増幅し、結果、相手に力が伝わらない。

腰を入れずに、反動を付けずに、一挙動で・・なのだが、意識を統一するため

(レールに滑車の着いた書架を押すように気張らずにガラガラと押しやるイメージで)・・と先輩に言われ、やっていると、力みがとれ、相手の軸へすーっと入っていける。そんな具合。

もう一つは、錯視の矯正だ。

自身の動作も、目では(まっすぐ)なつもりでも、実際には無意識に力が入り、方向も上下左右上へぶれる。

相手(鏡)に指摘してもらい、動線を修正するか、目の錯覚を糺すために(・・・のつもりで)動きをイメージする。

半信半疑でも、繰り返しやってると、ふと、相手が(ああっ!)とのけぞり、技がかかる瞬間がある。

だいたいが、掛けた自分が??になるほどだ。

イメージ伝達は、ある基本動作を習得するための標識である。

豊かなイメージは、ビジュアルで立体のものとして伝わる。

実は、この話、日々の暮らしでも同じなのだ、と痛切に思う昨今である。

意識の置き方、持ち方一つが人生を天地ほどにわけてしまう。

今日一日を、長い人生の一通過点にすぎないと思えば、すべてが通過点だけで終わってしまう。

予定帳をながめ、来週のこと、来月、来年のことに頭がいってしまうのが多くの人の頭の習慣だろう。

わたしもそうだったし。

結果、毎日、今日がおろそかになり、中途半端な一日を毎日おくるはめになる。

もし、(あなたは、ほどなく命がないかもしれませんよ)そう宣告されたらどうだろう。

今日一日、1分1秒の重みはいかばかりだろう。

思えば、人が生きるということは、(明日)という日も(昨日)という日も、ない。

あるのは、今日一日だけ。今日の連続でしかない。

連綿と続いてるように錯覚しているにすぎない。

カレンダーに生きるのが計画的に生きられ便利だから。

(一日一生)

などと偉い人がいうのを教訓めいてつまらない、と省みたこともなかったが、合気道の稽古で、体でそのことの術理を思知らされ、急に、切実なことだと思うようになった。

(今日一日が最後の日だと思って生きる)

意識の置き所である。

深い比喩を心の底に抱いていきることがどれだけ大切なことか。

どれだけ、人生を変えるか。

そういえば、昔やった太極拳の動作の一つに、(海底針)という技があったのを思いだした。

海の底に沈んでいる針を拾うように行う動作である。

心に残るような美しい表現だ。

武道の比喩は、宝石のような美しい比喩に満ちている。

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