老若男女、何事につけ自己主張の時代。
(奥ゆかしい)
なんて言葉が死語になって久しい。
テレビラジオは商品名やブランドの連呼。
タレントは放送中どれだけしゃべるか映るかを競い、
評論家、コメンテーターの自己流解説がやむ日はない。
選挙になれば、連日、政治家の名前の連呼。
巷には日々、人をかきわけ、押しのけ、
(これでもか)
という自己主張、自己表現があふれる。
これらを、
(なるほどね)と素直に耳を貸せるか、
(うるさいな)と逆効果になるか・・
の境界線はどこだろう?
言葉での(表現)、その最たる世界が「詩」。
谷川俊太郎さんという詩の達人がおられる。
彼の詩を読み、
「触れただけでビリビリ感じ、あっという間に投げられている」!
(もちろん、心がです)
という体験をした読者は数えきれまい。
谷川さんは詩を(身体のダイアローグ)ととらえる。
言葉での合気道ということか。
いわく、
「詩として成立する言葉と成立しない言葉がある」という。
その違いは、
詩にならない言葉は(うるさい)のだという。
「(わたしがわたしが)、と言いたてる詩は、
どんなに切実であっても、うるさい。
たった3行でも(わたしがわたしが)と言いつのる詩はうるさい」
「逆に、言葉が詩人の(わたし)から離れて、
自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きが良い」
今の人が「自分らしさ」をあらゆる場面で押し出すというのは、
谷川さん的に言うと「うるさい」「不愉快」。
それは、礼儀正しくないとか敬意がないというレベルのことでなく、
「わたしが語る」というそのものの不快さなんですね。
詩を、自己主張、自己表現とおきかえてさしつかえあるまい。
いわく、
「詩の言葉は本来、
(私以外の誰か)が(わたし)の口を通して語るのを(わたし)が聴く、
という屈折した体験です。
自分のいいたいことがあらかじめあってそれを告知するのではない。
自分の声に耳を傾ける・・という形で言葉に対する最初の敬意は生まれる。
自分の口から出てくる言葉の(静けさ)を聴く修練を積むわけです。
(わたしではないだれか)が語るときに、
言葉は深い響きを帯び、(私が語る)ときに(うるさい)ものになる」
この辺になると、凡人には到底到達しえない境地だが、
谷川さんの(武道的な知見)が深いことを感じる。
(詩)を身体と置き換えれば、
「意心形心」(楽心館のテキストのこと)の目指すところと同じであろう。
(オレガオレガ、ワタシガワタシガ)
をやればやるほど、逆に自分が相手に伝わらない。
・・・・
軸を立て、力まず、相手とつながり、
気剣体一致、
等速直線運動で、
相手の正中線へ切り落とす。
合気道の術理の奥深さをあらためて思う。