(一社)氣と丹田の合氣道会 楽心館

技を掛けられる快感とは|武道・会話・芸に共通する「受けの美学」

稽古へ行く楽しみの一つが、(投げられること)

というと、なんのこっちゃと呆れられそうだが。

事実だからしかたない。

技の掛け方を学びにいくんじゃないか、という指摘はごもっとも。

しかし、

技を掛けるには、掛けられることに精通する必要があるんだな・・と言えば美しいが、

ただ、技を掛けられる、投げられるのが、快感なのです。

これは何だろう。

私の中のマゾが目覚めたんだろうか。

もちろん、上手い人にきれいに掛けられた方が嬉しい。

先生に掛けられると、すかっとする。

畳にぐしゃっとなりながら、笑ってしまう自分がいるんですよね。

畳ぐしゃ・・がたまらないんです。

それだって先生は随分手加減してるわけで、

もっと若かったら、もっと思い切り投げ飛ばしてくれるんだろうな。

残念。

♪ どうせ私をだますなら だまし続けてほしかった

というセリフは一面真実なのよ、という女性が多い。

どうせ掛けるんなら上手くかけてよね、ということか。

上手い落語を聞くと、

ああ、すかっと投げられたなあ、という感じになる。

いい音楽で出会うと、きれいに技を掛けられた気になる。

昔は、(いやいや、こりゃ一本取られたなあ)

と破顔一笑するような大人の会話があった気がする。

会話でも、うまく掛けられるとすかっとするんだよね。

かつて田中角栄が演説すると、なんだかんだ批判してる人でも

どこかすっきりしてしまう話術的快感があった。

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