前回の「腰」に続いて、「腹」を考えてみたい。
腹というと、中年以降、ウェストがどんどん太くなり、腹の出たわが姿を鏡に映しては情けなくなった記憶がよみがえる。
ちょっぴり恥ずかしい、その「腹」ではあるが・・合気道の稽古中、「腹」という言葉はあまり使われない気がする。代わりに、先生がよく使う言葉は「丹田」、腹のさらに重心部、臍下丹田。
苦手な「粉漕ぎ運動」をしている時・・座技で相手の正面打ちを受けたとき・・「呼吸投げ」の最中・・腹は、腰と一体になって上体の軸を立てておく中心であり、同時に、(呼吸の出し入れ場所)だという感覚が、はっきり感じられる。
(余談だが、腹は肚と書いた方がどっしりして、ニュアンスがぴったりする気がする)
伝統的な身体文化が、「腰肚文化」とされるように、立ったり歩いたり、腰肚丹田姿勢は武道の基本の基。肚が、腰とともに身体の中心感覚にかかわる大変意味深な器官であるのは間違いない。
一般の暮らしの中で腰肚感覚が当たり前だった一昔前、腹にはどんな意味があったのだろう?
からだ言葉から集めてみると・・
昔は「肚の出来てる人」が仕事を任せられたもの。今は、「腹芸」のできる政治家もいなくなった。何かというとすぐ「腹を立てたり」・・「腹づもり」を問われても答えられる人が少ない。
世の中、「腹黒い」奴が増え、職場でも、「腹を据えて」仕事する人がいなくなり、何かというと人に「腹いせ」をしたり、 「私腹を肥やす」人間ばかり。昨今、新聞を眺めても「腹立たしく」「腹が煮えくりかえる」ことも多い。 仕事で飲みに行っても、「腹に一物」ありそうな奴ばかり。お互い、「腹の探り合い」が多くて、自腹を切って飲む人も珍しい。なかなか、「腹を割って」話せる人が少なくなったね。・・・という具合に、表現されてきた「腹」。腹はその人の(本心)と言い換えられそうだ。
他にも、「腹の虫がおさまらない」「詰め腹を切らされる」「片腹痛し」「腹が座る」「腹案」「腹の虫が収まらない」「腹に据えかねる」・・など、腹は人の心の根底に位置することが伺える。
人の臓器を研究する医学者の話では・・「人間など高等生命体が進化してきた一番古い源の器官が腹=腸。喉元すぎから排泄口までの腸管に心が宿り、財、名、色、食、睡の欲の源が存在する。心とは五欲に発する感情で、嬉しい、悲しい、怒りなど、内臓から発する情動」
「腹に自我が存在するから、昔の武将は自己実現に失敗したときに、腹を切ったのです。腹を切らないと怒りがおさまらないんです」・・とのこと。ふーん、切腹はそういうことだったのか。「断腸の思い」なんて言うしね。
そういえば、合気道をはじめた時、最初にお腹が気になったのは、帯をしめた時だった。まともな締め方を知らず、先輩に繰り返し教わったほど、生活からも帯は消え、帯を締めることに無知だった私。
最近は、ロッカールームで着替えて、きゅっと帯を締めると、気持ちまで引き締まる思いがするようになった。力をこめるときに息をぐっと溜めると、下腹部に力が入る。帯は、腹が拡がる力に抵抗する。
この帯の抵抗は、力を殺すものではなく、むしろ、腹の力を引き出す作用をしているのが判る。帯は腰骨と腹を結び付けると同時に、からだの周囲に巻かれることで、からだの「幹の感覚」をはっきり意識させてくれる。そうか、体幹の中心が肚だったんだね。
一時期、若者たちがジーンズのベルトを腰骨にひっかけ、垂れ下がったように着るのが流行ったことがあったっけ。あれは、見ているだけで身体の中心感覚が消失したなんとも不安定な感じがしたもの。まるで、日本人そのものの中心感覚が消失した感じだった。
身体感覚の中でも、生き方の上でも、「肚」を見つめることで、様々な人間の可能性が見えてくる予感がする。</