気分転換に「転換」を考える。自分を掴む欲望を相手に「転換」できる?
仕事柄、家で書き仕事(パソコンだから、打ち仕事かな)の締め切りに追われ、パソコンの前でグッタリすることが、まま、ある。
集中は、そう長続きしないから。だんだん、飽きてくる…
当初のモチベーションも消えてしまい、仕事そのものに「もう、やってられるか」と嫌気さえ湧くことも。
うまく気分転換できる時もあれば、酒を呑みに出かけて、後で余計しんどくなったりするのも、しょっちゅうだ。結局、締め切りギリギリになる。
合気道の「転換」同様、「気分転換にも技が要る」とつくづく感じる。
相手に掴まれた場合、「手解き」か…体の変更から「転換」するか…
気分を転換する場合、相手は他人じゃなく、自分なんだよね。飽きちゃったり、怠け心であったり、敵は自分なのだ。う〜む。
そいつが、「さぼっちゃえよ、大丈夫だからさ…」「まだ、締切りには時間があるしさ」「テキトーにごまかせばいいじゃない」といろいろ囁く。
つまり、そいつに手をがっちり掴まれた状態でなんですよね。
ことに、夜ともなれば「酒が呑みたい」なんて…欲望の力は強烈。
では…自分の頭に湧き上がってくる「欲望」や「怠け心」に掴まれた状況に、手解きや転換の術理を応用できないものだろうかなんて空想してみる。
(接点から意識を外す)(そのままに置いて、体軸中心にして技へ移行)…ハテ。
これが自身に対してできれば、いいのだが。
ふと、このパターンに似たあることを思い出す。
小生、大学院で臨床心理士を目指そうとした時期があった(叶わなかったけど)。
心の病の多くは、自分で無意識に作り上げてしまった心の回路(思い込みや思い詰め)に、自分自身ががっしり掴まれた結果、発現する。
“掴まれた状態”にジタバタ抵抗して病がひどくなっていく。自分の中の、知識、感情、欲望…いろんなものに掴まれる。やがて、思いつめて、意識に固着してしまう。
心理療法はいろいろあるけれど、要諦はまず、「意識の固着点を、自身で客観的に認識できるようにする」こと。接点の<客観化>が、治療の道なのです。
どうです、「手解き」や「転換」と、術理的に似てるでしょう。
実際、「問題点はべつに解決しなくても死にはしないから、放っておいて、スポーツや掃除など体を動かす合宿プログラムに取り組みなさい」…なんて療法も昔からある。
体を動かし続けるうちに、心の病が、憑き物が落ちるように癒えていくわけです。接点はそのままに、別のことに意識を移していく結果、癒えるんですね。
転換には、<身体感覚>とのバランスを取り戻すことが大きな役割を果たすんです。
皆さんも経験がおありでしょう、背中がカユいのだけど、どうしても手が届かない場合、孫の手で掻いたり、柱にクマのようにこすりつけたり、直接掻くか、あるいは…
「お尻でもどこでも、ギュッと痛いほどつねってみる」解消法がある。痛さのあまり、痒みの感覚を忘れてしまう…んですよね。
カユさの感覚に対して一種の…「転換」なんです。
合気道の技や体さばき、には、そんな<自分を相手にするとき>にも、応用できる術理がたくさん秘められている気がするなあ…
(自分の頭や欲望に、入り身したり、体の変更から転換したり…)して、鎮めてやる。ふ〜む。
ベランダに出て一服しながら、自分相手の合気道ってあるんだなあ、思う。
気分の「転換」なんて、すでに先輩諸氏は昔から実践されているかとも想像する。
(どれ、気分転換に剣の素振りでもしてこようか)と思う傍らから…
(寒いぜ。昼寝するほうが気分転換にならない?)と、どこからか囁きがきこえる。
今年こそ、意志薄弱な小生に、合気道がクスリになりますように。