氣と丹田の合氣道 / 古武道会 楽心館 › フォーラム › 稽古日誌 › 石川 蓮太朗 稽古日誌
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- taroren18キーマスター
柔術
・ゆらゆらと蝶々のように動く
・作為的ではなく、スクランブル交差点で人を縫うように歩む気持ち
・手首や腕の張りで相手の方向や力を感じてはいけない。それは調和とは言わない 間違った稽古で黒帯の人たちには通用しない。
・腕は柔らかく、自身の体で相手の腕と進もう(止めよう)としている方向を感じる
・動作している最中に相手の中心に向けての集中力を途切れてはいけない。中心への集中力があっての自身の動き、自身の動きで相手の中心へ入っていくのではない。
・入り身の手=腰/指先./相手の中心を結んでそのまま移動させる気持ち
・抜きの手=手に意識があると不思議と相手は初動を感じることができるようだ、自分が意識していなくても手首から動く動きになっているのだと思う。ダルダルで相手の肩から順に抜いていく。
・二教は抜く技 三教も抜く練習に繋げる 三教は決めより形に持っていくまでの方が取りの稽古になる。受けは手首を柔らかくさせる稽古と考えた方が賢明?剣術
「入り身=前に踏み込むこと」と誤認し、空間距離だけで打ちに向かう。中心を取るつもりが、「中心に腕を差し込む」動作に終わってしまう
「入る」とは、空間に入るのではなく、関係性において相手の“間”を支配すること。手首を引くと、肘が浮く・肩が上がる・中心が切れるといった連動が起きる
腕で入るのではなく、「体ごとそこにある」ような在り方
「受ける」とは、“防ぐ”ことではない。自分がどう在るかによって、相手の打ち込みが自然と失われていく状態を作ること。
または、
「中心を取る」とは、動きで前に出ることではなく、関係のなかで“支配的に在る”という状態を作ること。
腕や手先にそれをやらせてはいけない。背中を「広げる」意識を大事にし、剣を“下す”のではなく、「自分が沈んでいくことで、剣の位置が自然に下がる」力ではなく“構造”で下ろす。
自分は結局相手と接触してから上半身で下げようとしている。下半身で相手と一緒に落ちていく構造を作るイメージで稽古しなければならない - taroren18キーマスター
1. 抜く動作の成否を分ける構造理解
● 失敗パターン
抜こうとする際、相手の肩を、自分が掴まれているその位置で処理しようとすると止められる。
意識の動線が「自分の肩 → 手首 → そのまま自分の肩方向へ」という直線的・局所的な力の流れとなり、自己中心の力みが生まれてしまう。● 成功パターン
肩の外側が完全に脱力された状態で、まず体幹を中心とした内的身体操作を起動させる。
そのうえで、「自分の肩を経由して、相手の肩構造を背中側から包み込むように抜ける」。
これは、「相手の構造」と「自分の構造」が中心(体幹)を媒介にして同調・共鳴する動きであり、力で抜くのではなく、崩れが自然に起きる現象である。2. 肩外側の力みに対する自覚と制御
転換や「つの字」などの平歩練習中でも、無意識に肩の外側に力が入りやすい。
技がかかった瞬間こそ、相手の張力や動きに感化されて、自分も無意識に力で対応してしまう誘惑がある。
この「成功時の力の誘惑」に抗い、最後まで肩の脱力を保つことこそが、合氣の本質的な鍛錬である。3. 「気を通す」ことと身体構造の整え方
技が成立するためには、相手の背中側まで気を通す意識が不可欠である。
この意識が欠けると、自分の意識が腕や肩などの末端に留まり、全身が固まってしまう。
「気を通す」とは、構えにおける身体内の通り道と意識の方向性をつくることであり、これが脱力・一体化・内的操作の前提となる。4. 合氣における動作順序の理合
【理想的な身体操作の流れ】
肩まわりがダルダルな状態(完全脱力)相手の背中側に気を通す意識を構築
体幹中心(腰・丹田)から内的操作が起動する
※特に肘の軌道が重要。肘は常に自分の身幅に沿わせ、数センチでも外れてはならない。相手の身体が自然に崩れる
自分の体幹が動き出す
腕が最後に自然に追従する
→ この順序を破り、肩や腕から先に動いてしまうと、相手は崩れておらず、力で止められる結果となる。
5. 抜く動作と入る動作の意識の違い
● 入る動作
自分のへそ(丹田)から相手のへそへまっすぐ気を通すような意識で進む。
中心と中心を結び、構造的な「一体化」を生むための求心的動作。● 抜く動作
「肩から肩へ」という意識ではなく、自分の体幹から起動し、肩を媒介にして、相手の肩構造を“背中側を回って自分の中心に収めるように”抜いてくる。
斜め・湾曲的な軌道を通じて、相手の張力から逸脱する遠心的操作。
→ どちらの動作も「体幹を中心とした気の通り道」が必要であり、手首や肩といった末端に意識を置いた時点で、合氣としては破綻する。
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