小野派一刀流(会津伝系)の系譜と思想
小野派一刀流(会津伝系)の系譜と思想
※本稿は、会津藩流大東流合気柔術 教授代理・長尾全祐一刀斉角全 先生の記録をもとに構成されています。
1. 武田惣角と会津伝剣術の出会い
武田惣角源正義先生は、明治2年、会津藩の剣術師範・渋谷東馬より小野派一刀流剣術を教伝されました。その後、明治5〜6年には東京・車坂の道場にて榊原鍵吉に師事し、直心影流剣術を修得。また、少年期には神道精武流剣術・抜刀術も伝承されています。
惣角は単なる型の習得にとどまらず、実戦に即した真剣勝負を明治・大正期に数度経験したと伝えられています(山本角義氏の証言による)。これらの剣術経験が、のちの合気柔術や居合術にも深く関わる下地となりました。
2. 剣術観:音なき剣と実戦の哲学
惣角は「剣術とは音なきもの」と語り、剣道のように声を発してはならないと強調しました。声や呼吸が読まれれば命にかかわる──それが彼の哲学でした。
榊原道場では、大豆や小豆を床にまき、音を立てずに歩く稽古が行われたといいます。また、天井から吊るした絹糸を抜き打ちで斬る訓練、2本のローソクを台に立てて火を斬る稽古など、極めて繊細で実戦的な鍛錬が施されていました。
「初太刀は決して取らせるな。残りは相手に花を持たせよ」──これは惣角が山本角義に伝えた教えのひとつであり、真剣勝負における命懸けの知恵でした。
また、白鞘の使用を厳禁としたのも特徴的です。抜刀時に指を斬られる可能性が高く、命を落とす恐れがあるためです。
3. 小野派一刀流の由来と徳川家との関係
小野派一刀流は、伊藤一刀斎影久の高弟である小野次郎右衛門忠明によって創始されました。忠明は神上典膳を名乗り、上総国夷隅郡出身。一刀斎と諸国修行を重ねた後、徳川家康に仕え、500石を賜りました。
剣の腕は柳生宗矩を上回るとされ、三代将軍・徳川家光は忠明との立合いを許さなかったとも言われています。忠明の差料は波平行安、2尺8寸。彼の思想には「刀は長い方が有利」という実戦的な視点も見られます。
江戸期の剣術文書には以下のような一節も見られます:
居合こそ朝夕抜いて心みよ 数抜きせねば太刀もこなれず。
斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏み込みてみよそこが極楽。
4. 会津伝と他地域伝承との違い
注釈として、同じ小野派一刀流でも笹森貞一による津軽の系譜とは様式・稽古法に違いがあります。会津伝は、大東流との融合により体術や合気の観点と密接につながっており、より「理合」や実際の動きの中で技が成立するかを重視する傾向が強いと言えます。
一方で津軽伝は、藩校教育の延長にあり、礼節や形の美しさ、精神的涵養を稽古の目的とする側面が色濃く見られます。
5. 神道精武流と無限神刀流への系譜
武田惣角は、会津五流の一つとされる神道精武流の六代目とも言われ、抜刀術も伝承。その思想は、晩年の内弟子・山本一刀斎角義によって再統合され、無限神刀流居合術へと結実しました。
PHP研究所『歴史街道』(平成19年1月号)では、無限神刀流について次のように紹介されています:
「居合」は神道精武流の抜刀術。初伝・中伝・奥伝の計41本。「組太刀」は会津伝小野派一刀流術と神道精武流剣術によるもので、初伝・奥伝の28本が存在する。
6. 惣角の生活と思想の細部
惣角は極めて用心深い人物でした。山本が入れたお茶以外は口にせず、枕の下には短刀、枕元には鉄扇、布団の脇には大刀を常備して眠っていたといいます。後にこれらは山本角義に譲られ、大東流印、大羽織紐(松平容保公拝領品)と共に、継承の証として受け継がれました。
また、手裏剣術については「そんなもの昭和に何の役に立つ」と長尾氏が発言した際、惣角は「バカ者!」と一喝したとされます。結果として長尾氏は学ばず、後に「学んでおけばよかった」と深く後悔したと伝えられています。この逸話は、惣角の武術観が形式にとどまらず、武術すべてに命を込めていたことを示しています。
比較項目 | 会津伝の傾向(大東流との連携) | 津軽伝の傾向(藩校での稽古文化) |
---|---|---|
伝承母体 | 会津藩士を中心とする家伝・稽古の伝承 | 藩校などを通じた教養的な剣術教育 |
稽古の方向性 | 技の成立条件や身体操作を重視した稽古 | 精神性・型の完成度・所作の美しさを重視 |
稽古方法 | 組太刀・理合検証を取り入れた実動形式 | 伝統型・形稽古の繰り返しによる技の体得 |
使用武具 | 実重量の木刀を中心に使用 | 木刀に加え演武用の装飾刀を用いる場合もある |
籠手の有無 | 接触稽古を重視し、原則として使用しない(非装着派) | 打突や安全性を考慮し籠手を使用する場合あり(装着派) |