【日常の動作に潜む「稽古」】— ペットボトルを片付けながら気づいたこと
【日常の動作に潜む「稽古」】— ペットボトルを片付けながら気づいたこと
ひょんなことから大量なペットボトルのゴミを持ち帰ることになった
いつも稽古でお世話になっている地域の公民館。ある日、その片隅に大量のペットボトルが放置されているのを見つけた。見て見ぬふりをすることもできたが、いつも場所を使わせてもらっている以上、そのままにしておくのは気が引ける。結局、全部持ち帰って処理することにした。
家に持ち帰り、まとめて大量のペットボトルを潰したり、ラベルを剥がしたり、キャップを外したりという作業は普段しない。だからこそ、やっている途中であることに気がついた。
無意識の動作に現れる「偏り」
何本目かのペットボトルを処理しているうちに、自分の動作が自然と決まっていることに気づいた。
- 左手でキャップを外す
- 右足でペットボトルを踏む
試しに、右手でキャップを外して左足で踏む という動作に切り替えてみたところ、強い違和感を覚えた。
キャップを外す動作を細かく見てみると、実際には 左手で本体を持ち、右手でキャップを回すのではなく、左手のペットボトル本体を回してキャップを外している。つまり、自分が動かしているのはキャップではなく、ボトルの方だった。
そして、ペットボトルを踏む際も、普段は右足で踏むことに慣れているため、左足を使うととてもぎこちない。特に、「かかとをつけたまま、つま先を持ち上げる」という動作が右足と左足ではまるで違う感覚だった。
武道の「型」と体のクセ
武道において、剣術の構えや足の運びには厳密な決まりがある。
打ち込む際の足は右足、柄を握る手は右手が上。これらの基本を守ることで技の安定性が生まれる。
しかし、何も意識せずにただ振り続けていると、体のバランスは徐々に偏っていく。
その偏りは放置すればするほど定着し、やがて修正することが難しくなる。
日常生活の動作もまた「慣れ」によって成り立っている。
無意識のうちに、効率のよい動きや楽な動きを選び取るようになり、それが癖となる。
おそらく、人生の選択にも同じことが言えるのだろう。
だからこそ、意識的に反対の動きを試みると強い違和感を覚える。
これは普段の稽古でも感じることだ。
たとえば、剣術において左足を意識しなければ、自然と右に偏ってしまう。
気づかぬうちにバランスを崩し、無意識の「動きやすい形」へと流されてしまう。
このままでは技は崩れ、体の歪みへとつながる。
だからこそ、型を意識し、正しい動作を積み重ねることが重要なのだ。
日常の動作が「稽古」になる
ペットボトルを片付けながら、「良いことをすると、良い学びがあるものだな」と改めて感じた。
武道の稽古というのは、道場の中だけのものではない。
「体の使い方」や「無意識の動作」は、日常の中にも現れている。たとえば、ペットボトルのキャップを外す動作ひとつ取っても、自分の動きのクセやバランスが見えてくる。
稽古とは「気づき」の積み重ねだ。
技の正しさだけではなく、日常の何気ない動作からも、自分の体の使い方やクセに目を向けることができる。それに気づけるかどうかが、成長の鍵となるのかもしれない。
稽古は技だけではない
武道の稽古というと、技を磨くことばかりに意識が向きがちだ。だが、実際にはそれ以上のものを学んでいる。
今回のように、ペットボトルを片付けるという単純な作業の中でも、無意識の動作や体の使い方に気づくことができた。そして、それは技の上達だけではなく、生活の中での姿勢やバランスにも影響する。
さらに言えば、こうして「公民館のゴミを片付けよう」と思うこと自体が、稽古の延長なのかもしれない。
誰かがやるべきことを、自分がやる。
当たり前のことに、きちんと向き合う。
そうした姿勢は、技の稽古だけでなく、人としての在り方にも関わるものだろう。武道とは、ただ強くなるためのものではなく、日々の生き方そのものに作用するものなのだと、改めて感じた。
日常の中での気づきが、自分を高めてくれる。
だからこそ、稽古は技だけではなく、心や考え方にも影響を与える。
そして、それがまた技にも還ってくる。
結局のところ、剣の振り方や足の運びだけではなく、自分自身の生き方に気づき、磨いていくことが、稽古の本質なのかもしれない。