楽心館25周年の「指導員・有段者の稽古会」に参加。各道場から40名近い門人が参集、いつもは余裕の中野道場も、渋滞気味。
大半の方が初対面で、互いの癖を知り尽くしている常連同士の普段の稽古とは技のかかりも一味違い、発見連発でした。やはり、日頃の稽古は正直ですね。課題を一つ一つ設定し、精度の高い稽古をすることに尽きますね。人生残り少なくとも「急がば回れ」です。
ともあれ、顔ぶれには、“熟年合気道”諸氏(顔に書いてある)も多く、ご同輩との稽古が別の意味で印象的でした。人生折々の縁で、学友や職場の同僚との付き合いは数あれど、武道の門下生同士というのは、切磋琢磨しあう関係であると同時に、心身の内側にひそかな印を共有しあう者同士。まして、同時代をずっと共有してきた世代だと、「里見八犬伝」のように互いの徴を見あう気がします。
日頃、他人の体に直接触れること自体、少なくなった時代、家では、妻の手も永らく握ってないかもしれない親父連中が、一斉に手や腕をとり汗を流す光景は、ある意味、(壮観)でした。
いわずもがなですが、合気道は、身体を通したコミュニケーションでもあります。相手の身体から放たれる情報には敏感になります。初対面の相手であっても、言葉未満のさまざまな情報が交わされます。言葉を交わさずとも、術技の「精度」や「練度」のほか、本人も意識していないかもしれない「気質」や「癖」のようなものまで、感じてしまうから不思議。
次元は違うけれど、昔の医者が患者に直接触れることで、体が発する微細稲信号から病変を「診たり」、「手当していた」のもうなずけます。
同世代の方々が、どんな動機や経緯で入門し、ライフステージの上で、何を求めて取り組んでいるのか・・つい想像してしまいます。
それにしても、身体感覚に意義を見出した熟年合気道者たちが、社会にお返しできることは何かないものだろうか、そう思うのは、わたしだけではないでしょう。次回までのテーマということに。