(一社)氣と丹田の合氣道会 楽心館

小野派一刀流(会津伝系)の系譜と思想

小野派一刀流(会津伝系)の系譜と思想

※本稿は、会津藩流大東流合気柔術 教授代理・長尾全祐一刀斉角全 先生の記録をもとに構成されています。

会津藩における小野派一刀流の地位と歴史的背景

幕末期の剣術家の肖像(明治初期頃)。会津藩では多様な剣術流派が稽古されていた。 会津藩は江戸時代、有数の武芸奨励の藩として知られ、藩校日新館では会津五流と呼ばれる五つの剣術流派が教授されていました。その中には小野派一刀流系統の溝口派一刀流や、真天流、安光流、神道精武流などが含まれており、特に下級藩士に広く稽古されていたと伝えられます。小野派一刀流自体は戦国時代に伊藤一刀斎が興した一刀流を、江戸初期に高弟の小野忠明(次郎右衛門)が継承発展させた剣術で、江戸幕府の兵法指南役も務めた由緒ある流儀です。その奥義たる「切り落とし」の太刀さばきは、一撃で相手の攻撃と命を断つ理合を示すものとして有名で、100本以上ある一刀流の組太刀すべてにその理合が含まれており、一刀流の形を学べば剣道における正しい理合を全て理解できるとも言われます

会津藩への小野派一刀流の伝来については、藩祖保科正之(徳川家光の弟)による招聘が伝えられ、以後藩士の間で代々継承されました。幕末になると、会津藩士で藩医の家系に生まれた渋谷東馬が藩教授として小野派一刀流を指南していました。渋谷東馬の師は長らく不明でしたが、近年の調査で小野派一刀流第十三代宗家の大竹学兵衛であったことが判明しています。渋谷は竹刀ではなく木刀による形稽古を重視し(※当時すでに他多くの道場で防具着用の竹刀稽古が盛んでしたが、会津伝では古式の形稽古が守られていた)、これが会津伝小野派一刀流の特色の一つとなりました。明治維新後、会津藩が敗れて廃藩置県となると、藩士たちの武術鍛錬は一時途絶えます。しかし渋谷東馬は明治2年に旧藩士の武田惣角に一刀流剣術を伝授しており、この系統が細く生き残ることになります。渋谷から武田惣角、そして惣角から山本角義へと受け継がれたこの流れこそが、今日「会津藩伝小野派一刀流」と称される系統です

武田惣角が修めた剣術とその実戦的哲学

明治維新後に剣術を受け継いだ武田惣角(たけだ そうかく)は、後に大東流合気柔術を興すことになる人物ですが、若き日は何よりも剣術修行に情熱を注いだ剣客でした。惣角は明治2年(1869年)、会津坂下町の養氣館において藩剣術師範だった渋谷東馬から小野派一刀流剣術を伝授されました。さらに明治5~6年頃、上京して榊原鍵吉の東京車坂道場に入門し、幕末最強の剣客と謳われた榊原から直心影流剣術を学んでいます。幼少期には一族の伝手で会津藩固有の神道精武流剣術や抜刀術も身につけていたとされ、これら多様な剣技の修行が惣角の武術観を形作りました。

惣角の剣術観は徹底して実戦的であり、「剣術とは音なきもの」という言葉に象徴されています。試合稽古の剣道のように大声で気合を発するのはご法度で、声や呼吸を相手に読まれれば命取りになるというのが惣角の哲学でした。実際、榊原鍵吉の道場では床に豆を撒いて音を立てずに歩く鍛錬、天井から吊るした絹糸を居合で斬る訓練、台に立てた二本の蝋燭の火を斬り消す稽古など、極めて繊細かつ実戦的な修練が行われていたといいます。こうした修行を積んだ惣角は、「初太刀は決して取らせるな。残りは相手に花を持たせよ」と山本角義に教えを残しています。つまり勝負の最初の一撃で主導権を決して渡さず、その一太刀で勝敗を決める覚悟を持て、という意味であり、あとの攻防はおまけに過ぎないという、生死を懸けた真剣勝負の知恵です。

大東流合気柔術への理合の融合 – 山本角義から長尾全祐への伝承

大東流合気柔術は、武田惣角が会津藩伝の秘術(御式内と呼ばれた柔術)に自身の研鑽した諸武術のエッセンスを融合して完成させた武術ですが、その背景には剣術の理合の深い影響が存在します。惣角が晩年まで門外不出としていた「合気」の極意は、単なる徒手の関節技や投げ技ではなく、剣を持った攻防そのものを体現した動きであるとも言われます。実際、彼の高弟たちの中には剣術修行を通じて合気技を体得しようとした者もおり、惣角直伝の剣術形(俗に「惣角伝」)を伝える系統も一部には残されました。しかし、武田門下で剣術を体系的に会得できた者は極めて少なく、多くの大東流修行者にとってその剣術の理合は霧に包まれた存在だったのです。そのため、大東流の師範や門人の中には、武田惣角の剣術の源流である小野派一刀流こそが大東流技法の鍵を握ると考え、わざわざ笹森順造門下の津軽系小野派一刀流を学びに出た人物もいました。これは裏を返せば、惣角の大東流に剣術の理合が不可分に融合していた何よりの証左と言えるでしょう。

惣角の没後、その剣術と合気柔術を一体として最も忠実に受け継いだのが、最後の内弟子山本角義でした。山本角義は大正末期から昭和にかけて惣角に師事し、合気柔術とともに会津伝小野派一刀流剣術および抜刀術(無限神刀流居合術の原型)を伝授されています。惣角が「お前にすべての武術を伝授する」とまで言い遺した唯一の門人が山本であり、剣術(真剣術)と合気の秘伝の双方を直接に継承した希有な存在でした。山本はそれらを統合し発展させる過程で、自らの工夫も加えています。たとえば大東流の手刀(てがたな)の理合や独特の足運び(撞木の足など)を剣術と居合に応用し、新たに無限神刀流居合術という居合流派を興しました。これは、剣と柔が表裏一体であるという信念から生まれたものです。実際、山本門下では「剣柔一体」を掲げて大東流(柔術)・一刀流剣術・居合術の三位一体の稽古が行われています。

山本角義から昭和末期に三流派すべての奥義を相伝されたのが、現存する会津伝系の継承者で宗家を務める**長尾全祐(一刀斎角全)です。長尾は昭和45年(1970年)に山本に入門し、12年の修行で無限神刀流居合術および大東流合気柔術の教授代理(皆伝)となり、山本から正式に全伝を任された門人となりました。長尾宗家の証言によれば、山本門下では常に「一刀流で鍛えた手の内(握り・剣捌き)がそのまま大東流の合気上げ(手力を抜いて相手を崩す妙技)に通じ、居合術で鍛えた身のこなしが体術の極意に通じる」という指導がなされていたといいます。すなわち、剣の理法そのものが大東流合気柔術の技の根幹を成しており、刀を持っての鍛錬と素手の技法が一つの原理で貫かれているのです。大東流合気柔術山本派(山本伝大東流)の根底には常に会津伝小野派一刀流剣術があり、まさに剣と柔が不即不離の関係で融合していることがわかります

他流派との違い:津軽伝小野派一刀流や現代武道との比較

会津伝小野派一刀流は上述のように大東流と渾然一体となって継承されてきた経緯がありますが、実は小野派一刀流には他にも系統があります。代表的なのが津軽伝と呼ばれる弘前藩(津軽藩)に伝わった系統で、こちらは藩主津軽氏によって厚く保護され明治以降も命脈を保ちました。第6代弘前藩主の津軽信寿は江戸で小野家第5代忠一から直々に一刀流を相伝され、以後津軽家伝来の剣術として伝えられます。大正時代にこの津軽系統を継承した笹森順造は、自流の保存と普及に尽力し、戦後その子息の笹森建美とともに東京に道場「礼楽堂」を開いて小野派一刀流を指南しました。現在、「小野派一刀流」という名称は笹森建美師範の門下により商標登録されており、いわば津軽伝こそが表立った小野派一刀流の正統と認知されています。一方の会津伝系は長らく大東流の影に隠れる形で秘密裡に伝承されてきたため、古武道界でも存在が知られるようになったのは比較的最近のことになります。

では、会津伝と津軽伝、そして現代武道である剣道・合気道などは何が異なるのでしょうか。【表1】に主な特徴の違いをまとめました。

項目 📋会津伝小野派一刀流津軽伝小野派一刀流現代剣道
系統・継承渋谷東馬→武田惣角→山本角義→長尾全祐と、会津藩士から大東流を通じて極少人数に秘伝的に伝承。近年は大東流門下で併伝され復興。小野家から津軽藩主に相伝され藩伝武術に。明治以降は笹森順造・建美父子が継承し、東京の礼楽堂で公開稽古。複数流派の竹刀稽古を基に明治期に創始。旧制高校や警察で広まり、戦後はスポーツ化して全国に普及。流派というより統一競技として継承。
稽古法防具を着けず木刀主体で形(組太刀)稽古。声を出さず静かな間合いの鍛錬が特徴。体術(合気柔術)稽古と並行し理合を探究する。木刀による形稽古が中心だが、一部に撃剣稽古(竹刀試合)の伝承も。現在は形稽古と基本動作の修練が主体。礼法や伝統的所作を重んじる。防具と竹刀を用いた自由打ち込み稽古が中心。試合稽古では大きな気合声と素早い打突を鍛える。形稽古もあるが訓練の比重は試合稽古が主。
技法・実戦性真剣想定の「実戦剣術」。組太刀は一撃必殺を想定。斬撃・突き・体捌きを含み、柔術的な応用も存在。江戸期以来の一刀流形を忠実に継承。理合は会津伝と共通するが体術との連動は教えない。古流剣術として礼法・演武を重視。「試合」に勝つことが主眼。突きは喉のみ、斬りは面・胴・小手のみに限定。組討ち等は禁止。反射神経が重視される。
目的・志向剣と体を一体化し、相手を殺傷し得る技を鍛える。「活人剣」として制する理合も探究。古武術で自己鍛錬・護身を図る。古流剣術の保存と伝承。武道文化の継承、美しい型稽古による人格陶冶。試合は行わず演武重視。スポーツとして心身鍛錬、礼節教育。勝敗や段級審査を通じ向上心を育む。安全性・公平性を重視。

稽古内容と形稽古・会津伝の理合の魅力

会津伝小野派一刀流剣術の稽古は、基本的に師範と門人が向かい合って行う形稽古(組太刀)が中心です。互いに木刀を持ち、定められた型に従って攻防を繰り返す中で、剣さばきや足さばき、間合(距離)の測り方、呼吸の詰め方といった理合を体得していきます。たとえば、一刀流の代名詞である「切り落とし」の型では、敵が上段から斬りかかってくるその刀を自分の太刀で受け流すと同時に真っ向から斬り下ろすことで、一撃で相手の攻撃を無力化しつつ相手を倒すという高度な技法が鍛錬されます。これを可能にするには僅かな動揺もない安定した姿勢と足運び、そして刃筋を乱さずに相手の太刀を制する精妙な手の内が要求されます。まさに「無駄な動きを一切許さない太刀筋」であり、理合は大胆にして巧妙と評されます。形稽古ではこのような状況を想定した極限の攻防を何度も繰り返すため、単なる素振りや打ち合いでは得られない深い洞察と身体操作感覚が養われます。

会津伝ではさらに、大東流合気柔術の稽古と剣術の稽古が相補い合うよう工夫されています。剣の形を反復することで身につく重心移動や間合感覚、相手の刃筋を感じ取る繊細な感性は、そのまま大東流の体捌きや当身(打撃)、崩し技に直結します。逆に、合気柔術で培った相手の力を誘導するタイミングの取り方や崩しの理合は、剣の形における「隙の探り合い」や「機を見て先を取る」駆け引きに生きてきます。体術と剣術が表裏一体となった稽古により、剣を持っても持たなくてもブレない芯の通った武術的な身体が出来上がっていくのです。その過程で習得される理合の魅力は計り知れません。相手に気配を悟らせない静かな立ち居振る舞い、一拍子で決着をつける剣筋の冴え、刀を交わさずして相手を制圧する間合の妙──現代のスポーツ的な武道にはない深遠な「古流剣術」の世界がそこに広がっています。

6惣角の生活と思想の細部

惣角は極めて用心深い人物でした。山本が入れたお茶以外は口にせず、枕の下には短刀、枕元には鉄扇、布団の脇には大刀を常備して眠っていたといいます。後にこれらは山本角義に譲られ、大東流印、大羽織紐(松平容保公拝領品)と共に、継承の証として受け継がれました。

また、手裏剣術については「そんなもの昭和に何の役に立つ」と長尾氏が発言した際、惣角は「バカ者!」と一喝したとされます。結果として長尾氏は学ばず、後に「学んでおけばよかった」と深く後悔したと伝えられています。この逸話は、惣角の武術観が形式にとどまらず、武術すべてに命を込めていたことを示しています。

江戸期の剣術伝書には、以下のような詩が記されています:

居合こそ朝夕抜いて心みよ 数抜きせねば太刀もこなれず。
斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏み込みてみよそこが極楽。

 

この詩は、一刀流の稽古が単なる技術習得ではなく、日々の中で生死の覚悟を練り上げる行であったことを示しています。