人間味を持ったまま強くなる|合氣道・修行・決断力の本質を学んだ日
この話を聞いたとき、私は合氣道の師である武田惣角の姿を思い出した。
彼の内弟子であった山本角義師範が、かつて「惣角先生はとても冷たい人だった」と語っていたことがある。
それは感情がないという意味ではなく、
**技をかけるときに一切のためらいがない、徹底した“非人間的な強さ”**を持っていたということだ。
私には、それが難しい。
稽古で相手が痛がる様子を見ると、無意識に加減してしまう。
技を最後まで決めきれない。やさしさが、身体の判断を鈍らせてしまう。
やさしさと決断力は両立する
しかし最近、考えが変わってきた。
人にやさしいからといって、技がかけられないのは問題ではない。
やさしさに“引きずられること”が問題なのだ。
必要なときに、「やる」と決める。
その瞬間にためらわない身体と心を育てる。
それが合氣道における「決断力」であり、「非認知能力」の一つでもある。
やさしさは消すものではない。
やさしさを持ったまま動じない。そこに本当の強さがある。
子育てや仕事にも通じる“武道の修行”
この学びは、道場の中だけの話ではない。
たとえば、親が子どもに本当に伝えるべきことを伝えられないとき。
怒ってしまうのではなく、「嫌われたくない」という気持ちで黙ってしまう。
それはやさしさのように見えて、実は“決断を避けている”だけかもしれない。
仕事でも同じだ。
部下に対して厳しい判断をする場面、クレーム対応、経営判断。
感情を持ったままでいい。
感情を持ちながら、冷静に動ける状態をつくる。
合氣道で培う身体の感覚や技の判断力は、
そのまま人生の判断力や決断力へとつながっている。
教えさせることでしか、生まれない学びがある
最近、試していることがある。
あえて難しい技をやらせる。説明はしない。
放り投げるように、子どもたちに任せてみる。
すると、不思議と動き始める。
自分で考え出す子、隣と相談し始める子、身体の中で“できない”を探り続ける子。
そこには「型どおりに動く子ども」ではなく、
自分の感覚と格闘している“ひとりの人間”がいる。
人間味を残したまま、強くなる道を選ぶ
山にこもる修行は、自然と向き合うためではない。
“人間ではない何か”と向き合い、自分の中に取り込む行為だ。
それは武道における「ためらわない動き」と同じ本質を持っている。
楽心館の稽古では、相手が本気で抵抗してくる。
だからこそ、「ただやさしいだけ」では技がかからない。
でも、技がかかったとき、そこに“やさしさ”が宿っていてもいい。
私は、人間味を失わずに、強さを手に入れる道を選びたい。
そのための稽古を、今日も続けている。