最終更新日 2014年9月18日
東京合気道シニア稽古TOP 2011年
2012年
2012年1月11日 628日 左右面打ち
剣術「左右面打ち」:相八双から私が面打ち。先生は剣(木刀)を顔前に立てて受ける。私が剣を打ち込み先生が受けたところで 『そのまま剣で(先生を)斬る』
と言われる。 交差している先生の剣をさらに斬ろう(軸を崩す)と剣を振るが止められてしまい動かない。 私が先生の打ち込みを受ける。その交点から先生が剣を振ると上半身が揺らぎ崩される。
踏ん張っても動かされる。 何度やってもだ。 『肘を体(脇腹)につけて受けろ』と教わる。剣を受けたとき、肘を体につけていると腕が上体で支えられて安定する。
だが、これは同門者同士の時であって。先生が多少気を入れて剣を使うと簡単に軸が崩される。
先生と私では、まず、剣の構えが違うことに気が付く。 打ち込みを受けたときの先生の構え(写真)は、撞木足で剣を顔前中央に立て、やや体を沈めて三角形を作っている。
比べて鏡で見る私の構えは一言で言えば“軽い”。明らかに先生の構えとは違う。力技で崩されている訳ではない。交点からなぜ上半身が揺らぎ崩されるのか?
1月18日 630日 技の掛かりの違い
「片手取り小手返し」:小手を掴んだ先生から掛けられると、小手を上方へ挙げられた段階で掛かっているのが肩に感じる。肩の掛かりが腰にくるので、堪えることができない。掴まれた手首は捻る・折るがないので痛みはない。
私が試みると、小手を挙げた段階では掛からず (合気道としてはこれで終わり)、肩への掛かりがないから手首の折りで倒すことになり、強くやれば『痛みで倒している』。力技、柔術だ。
「四方投げ」:片手取りから側面に入り肩を崩すときも同様で、先生に掛けられると肩が抜ける状態になって崩されるが、私が試みると肩への掛かりがないので止められてしまう。この大きな差は何から生じるのかと言えば、小手返しと同じで、肩への気の通しがない、繋がっていないのが原因ではないか。
3月14日 642日 二三歩遅れないと掛からない!?
私の技は 『二三歩遅れないと掛からない他派と同じ程度で、楽心館が求めているのは、上質の技』との指摘を石川先生から受けたのは数週間前の稽古時で、何の技か覚えていないが稽古内容が悪かったことだけは記憶している。
私は、他派がどんな稽古をしているのか知らないが、 「二三歩遅れないと掛からない」とはどんな意味合いなのか分からなかった。最近になって、以前から指摘されている『一・二で技を掛けるからダメなんだ。一で掛ける』ことが「二三歩遅れ」に該当する面もあるのではないかと思い、私なりに考えてみた。
例えば、小手を掴まれた状態から相手を崩すとき、技を「掛けよう」とする心の準備・意識が、体の硬直(居着き)、身体的な“動き”として起こり、この動き(一)が相手に察知され、本来の技を掛けようとする動きとのあいだの“間”、途切れた動き(二)となり、押さえられ、交わされ、技としては効果が無くなるのではないかと考える。
「一で技を掛ける」とは、流れを止めないことになる。 石川先生は別の表現で「一拍子」として解説されている。
『一拍子とは、一呼吸・一挙動と同義で、剣術の素振りで、一・二ではなく一で振る。体の捌きであれば一つの動きとすること。停まらない、区切りのない連続した動き。速さではなく一致していることが大事なこと。ゆっくりの一呼吸が理想』。
初心者・初級者は「一・二」の動きの差を捉えられないので技が掛かりやすいが、稽古を積み重ねていくと、身体を通して感じる僅かな動きであっても察知できるようになる。
私も初級者の「一・二」の動きは分かるが、技を掛ける側となると「一・二」で動いているとの意識がない。『一・二で動いている』と先生から指摘されて始めて気が付く。停まっている、区切りをしているとの認識がないのだ。
では“初動を消す”にはどうすればいいのか。先生は数年前の日誌の中で「臂力−片手取り両手持ち」を例にして『掴まれた手を、手・足の一致だけで崩そうとしても無理で、思ったときは終わっている(崩している)ことが必要。
これを一挙手と言う』(09年12月)と解説されている(「一挙手」とは「一拍子」と同義)。技を掛けようとして掛けるのではなく、思ったときは相手が崩れている。 究極的には『心の準備・意識を無くす』。
言葉としては理解できる気がするが、実践するのは至難で、とても奥が深い言葉。「二三歩遅れ」が「一・二の動き」当てはまるかは不明だが、大きなの違いはないと思っている。
3月31日 647日 手・体・踏み込みを一致
「片手推手」:『手刀は正中線に垂直に立て、そのまま相手に向かって入り身』、そして『手・体・踏み込みを一致させる』。 「船漕ぎ」:入り身は体を固定し、緩んで受けの正中線に入る。
抜きは『前後の腰を引かず、両肩を意識して緩んだ瞬間に抜く』。
4月18日 652日 カラーの道着
テレビで女子柔道の試合を見ていたら、片方の選手が青色の道着で試合をしていた。色分けしているので両者の違いがはっきりして分かりやすい。 見ていて思い出したことがあった。 数年前まで開催されていた大正大学主催の演武会で、参加していた団体の人が赤い上衣に白袴で演武し、女性では水色やピンク系の袴姿の人もいた。
柔道界でカラー道着が決定されるまで賛否両論があり、カラー道着反対派は、
○白い道着は柔道の本質であり、象徴・伝統だ。 選手の経済的な負担が大きい。 賛成派は○両者の違いが見やすく、道着の色が変わっても伝統・精神まで変わらない。 大相撲はテレビ中継が始まってから赤や青などのまわしを付ける力士が増えた。などなどの意見があったようだが、正式にカラー道着が採用されたのは2012年のシドニーオリンピック。
合気道はどうか。 試合をしないので色分けする必要性はないが、私自身はカラー道着は賛成。 参加者の大半は趣味として、健康目的として合気道を楽しんでいる。
好きな色合いの道着で稽古するのも悪くない。 色の選択は個人的な、感覚的な好みで選べ好いと思う。 実際に販売されているのは白色だけなので好みの色を選ぶのは無理だが、水色やピンクの袴で稽古する人達が出ているのだ、
20〜30年後はカラフルな道着で稽古する人達が表れる気がするが。
2012年7月14日 670日 掴んだ襟を「体の合気」で崩される
◆私が左手で先生の襟を強く掴む。先生は私の拳を右手で胸に密着するようにして掴み、右方向(掴んでいる左手側)へ体を開きながら拳を襟から外してしまう。拳が外されるとき、私の左拳と先生の右手との間に肉体的な摩擦、ぶつかりが感じられないので、抵抗する間もない。右手で掴んでも同じ結果で、「体の合気」で崩すと教わる。
私も試みたが、襟を掴んでいる先生の右手も左手もびくともせず、外せなかった。
相手から襟を掴まれたときの外し方は、今までに習得した技で対応すると、掴まれた側は相手に当て身を入れて外し、小手を掴んでの一教や、六教、掴んでいる拳を二教での崩しなどがある。柔術技での崩しも考えられるが、今日体験したこの崩し技は当て身をしないし、二教よりも高度な崩し技に思えた。
この技のポイントは何か。体験した感触としては、私の拳を掴んだ先生の動きが少ないことだ。気の通し、繋がり(合氣になると言えばいいか)が出来ると技としての効果が生じるのでは、と考えてみたが。分からないとしか言えない。「体の合気」とはどんなことなのか、これから少しずつ勉強することになる。
9月26日 688日 棒術の稽古
◆合気道の稽古前に剣術の個人教授を受けている。私は棒術(杖術)にも興味があったので、今日はリクエストをして、棒術の稽古となった。テキスト「真理平凡」には、棒術−打ち方「裾・面打ち型」と「四方棒振り型」(小手・裾打ち)の習得と
記してあるが、稽古をしたのは足払い型と面打ち型(天頭打ち・金的打ち)。 六尺棒(約180p)で稽古をする。棒術の稽古は以前2度ほど稽古をしたことがあるが、六尺棒を使うのは始めて。映画などでは観ていたが、持ってみると重さ・太さ
が四尺棒とはかなり違う。六尺棒を頭の上にして肩幅よりもやや広めに持つ基本の構えは、棒の長さの感覚が掴めないので、棒の掴み手の移動(構えたときの掴みと、打ち込んだときの掴みの移動)が難しく、中途半端な掴みなので打ち込んでも届かない。
六尺棒対木刀の組稽古もある。六尺棒で構えた先生に私が木刀で斬り込むと、先生の打ち払う六尺棒の重さで木刀は弾き飛ばされる。『真剣も六尺棒で打ち払われると折れてしまうだろう』と言われていた。剣と棒術の稽古は、言ってみればチャンバラみたいで面白い。
10月10日 692日 四方投げには二種類の崩しがある
◆『四方投げの二種類の崩しの違いが分かるようになったようだ』と先生。相手の側面に付き、小手を廻しての後方への崩し技と、肩の胸側真下に落とす技。ただ、違いが分かるようになっても、二種類の違いを掛られるかとなるとまだまだで、“胸側に落とす”の崩し方が曖昧になっていた。今日は、胸側に落とす崩しを改めて教えていただいたが、私の崩しは『崩しの方向・位置が違う』と指摘され、痛いとも言われる。確かに先生の崩しは痛みがない。改めて先生の動きの方向・位置を確認し、勘違いしていた胸前の位置を訂正する。
◆剣術は「柄取り」。柄を掴んで手前に抜くときに、足腰は動かさないが基本。だが、今日も『腰を引いているから掛かっていない』。打ち込まれた先生の剣を受けて抜くとき、同時に腰も引いていた! また、左半身になるので『左足の爪先を上げない。膝を受けの膝と合わせる』
11月14日 699日 駅の階段の登りが辛くなる
◆中野道場(中央線中野駅)へ行くとき、地下鉄三田線の沿線に住んでいる私は、巣鴨駅でJR・巣鴨に乗り換える。下車したホームから改札口まで階段(25段)を上り、JR改札口へ行くのも階段(61段)を歩いて上る(エスカレーターはある。重い荷物があるときは乗る)のだが、この階段(途中に踊り場があるから歩く気が起きる)を上り切るまでの、あと7〜8段ほどが夏の終わり頃から辛くなってきた。ふくらはぎや太腿の筋肉が弱音を吐く。木刀を持ち、胴衣や携帯ポットなどを入れて背負ったリュックの重さが肩に堪える。巣鴨から中野までの乗り換えはエスカレータに乗る。
文京道場(丸の内線茗荷谷駅)に行くときは、ほとんどエスカレーターに乗る。大江戸線の春日駅ホーム経由で営団地下鉄乗り換え口に着き、南北線後楽園駅側の通路に出ると長いエスカレーターがある。始めて見たときは高さ、長さに驚いた。距離はあるがエスカレーターに乗るので中野よりは楽だ。
◆巣鴨の階段の上りで足の衰えを感じて以来、積極的に散歩をするようにしている。と言っても週2回、1時間程度が目安だが、散歩時間の短縮や、気が乗らないと中止するので週1回が現状。歩くときは背筋を伸ばし、左右に身体を振らないで歩くのが好いようで、軸を立てる合気道の基本と同じ。近くに緑地帯がある。幅は狭いが長さが3qあるので、散歩で行く所。歩くことの効用は脳の活性化にも繋がるとの記事もある。記憶力減少が激しい私も、少し期待しながら今後も続けることが目標。
12月1日 704日 「外回し二教」の崩し
◆Aさんに二教の稽古を頼まれ、「外回し二教」の稽古するが、取りのときのAさんの掛かりが悪い。ふっと思い、私の左小手を掴み返しているAさんの右手首に左手掌を乗せ、その形から、乗せた左手で(掴んでいる右手ではなく)技を掛けるように勧めてみたところ、思った以上の効果が出た。私の小手を掴んでいるAさんの右手が、結果として捻らない、力まないことになって技が掛かった。
改めて「交差取り二教」を思い出した。左交差取りでは、掴み返して右手を相手の小手に乗せる形が行われる。技を掛けるのは左手で行うが(右手は相手との接触を増やし、掛かりを良くする)、左手からの崩しは力んだり、手首を捻る、折る、曲げる動きをしがちで掛からなくなる。そこで、乗せた右手から試みたらどうだろうと思い、左手は掴んだまま動かさないで、右手から掛けてみたことがある。気の通し、繋がりがあれば同じように掛かる。
2013年1月26日 717日 「合気上げ」の小手はなぜ方向が「上」になるのか
◆Cさんと座り技「合気上げ」の稽古。Cさんが取りになり、小手を押さえた私の両手を上げようとするが、私の肩の付け根ではなく、頭方向へ持ち上げているので掛からない。私が取りになって試みると同じように「持ち上げている」と言われる。上げるときにぶつかりを感じていたので、力みと上げる方向がズレていたようだ。その後、Bさんと稽古。私が取りのとき、Cさんとの稽古時でのミスを訂正して試みる。
Bさんはのけぞるように後方へ崩れる。見た目には先生との稽古時と同じような崩れ方に見えたが、本気になって押さえていなかったようだ。
ところで、掴まれた小手を肩付け根に向けているのに、なぜ方向がズレて上に挙げてしまうのだろうか。座って向き合い、両膝に置いた取りの手首を受けが押さえたとき、押さえ込まれた取りの手首と掴んでいる受けの腕の付け根までの距離はおよそ50p程度。僅かな距離だ。なのにズレが出来る。稽古でも方向が「上になっている」と指摘を受ける人が多いと思う。私も未だに方向が『上だ』と先生から指摘される。
わずか50pほどの距離なのに、永年稽古をしてもズレを訂正するのは難しかった。
が、『掴まれた甲から挙げる』と教わって以来、方向のズレは訂正できるようになってきたが、まだ正確さが足りない。方向がズレるのは両眼からの視線で受けの腕付け根を観ているので、上げようとする瞬間、手の甲への意識が飛んでしまうためではないか。しかも、掴まれている小手を上げたい思いが力みとなり、正確性が薄れ、力が強いとか、方向が上になっていると指摘を受けることになる。手の甲と教わっていても実践していなかった。しているつもりでも、つもりで終わっていた。
手の甲に氣を置き、甲から相手の小手・上腕部を通して肩付け根に向かうことで、方向のズレを無くす、が先生の言われる“甲に気を置く”との意だと考えている。そこで、手の甲に目=目線を置いたらどうかと思い付いた。手の甲に置いた第三の目から腕付け根を観る。両眼からの目線と比べると角度が狭くなり正確性が高くなるのではないか。目線というイメージできる言葉で具体性が増すのではないか。