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最終更新日 2014年1月10日
毎年、稽古始めは参加者が少なく、今日は2人だけ。個人的にはじっくり稽古ができて好いのだが。 稽古仲間のSさんが、「先生からの賀状に、今年から女性だけの教室を始めると書いてあった」、と言っていた。昨年12月に『来年は自分の合気道クラスを作ることを目標に』と先生からメールがあったことを思い出した(女性専用とは書かれていなかった)。稽古をしている中野体育館は、JR中央線・地下鉄東西線の中野駅から徒歩5〜6分ほどで、楽心館の稽古場の中でも交通条件はかなり好いので、女性にも通いやすい道場だと思う。
昨年から稽古中に感じていたことがあった。それは、二教などで受けをしたとき、「今なら掛かる(掛けられる)」のでは、といった感覚(気)をフワッと感じることがあり、実際、「今だ」と相手に言って掛けられることがある。その感覚とは言葉で表現するのは難しいが、モワッとした空気が受けとの間に漂う、とでもいえばいいのか。 他の言葉が見つからないので、「気」という表現を使ってしまうが、なぜ技が掛かると思うようになったのか。始めの頃はこの感覚が何なのか分からなかったが、この不思議な感覚を一瞬感じると、相手との間に共感ができる(ような気がする)。繋がりができる(ように感じる)。技が掛かりそう(ような気を感じる)。……のような、といった曖昧な言葉でしか表現できないが、先生から二教を掛けられた時に感じた「気」と同じような感覚なので、掛かりそうだ、掛けられそうだ、と感じるようになったのこともあると思う。
強いて言葉にすると上記のようになるが、この“掛かりそうだ”は、私の漠然とした感覚であり、思い込みであり、他の同門者はどのような感じを得ているのか聞いたことも無いので分からない。石川先生が『気を感じる』といわれている「気」も言葉にするとどのような表現になるのだろうか、と思うが。この感覚は稽古中に常時感じることでもないが、私自身はこの感覚が磨かれれば、剣術の「初動確認」の時に先生が言われていた『相手の気を感じる』ようになるのではないかと考えた。(ここでの気の意味は、心意気体という時の気の意味)
この感覚について先生は『それは組んだときの姿勢、体勢が理論通りになっていると感じる技術・身体的意味の気で、観念的な意味での気ではない』と、説明されていた。
テキスト「意心形心」を読み返してみたところ、気を相手に伝えるに関しては次のように記されていた。【良い焼物にたとえると、「気を伝える」練習は良い粘土のこねり、技の稽古は良い焼き上げ】となっている。さらに、【「気を伝える」練習は二つあり、その一つは「身体の使い方の鍛錬」で船漕ぎ運動、正面打ち一教、合気上げなどがある】となっている。気の伝達は曖昧な状態でできることではなく(当然、気を伝えるには気の養成が必要になるが)、日常の基本稽古の積み重ねが必要になる、とのことだ。私が感じた感覚は果たして何なのか。急ぐことでもない。時間を掛けて考えることにする。
居合、剣術に関して不明、曖昧な点に関して質問し、注意・訂正したこと。 居合:半立技(半立ちは両膝を左右に開き爪先立ちで腰を下ろした状態。一文字腰)はなぜあるのか? 座り技、立ち技に比べて半立ち技は実戦的にあまり意味がないように思えたので。─『足腰の鍛錬のためにある。他の流派ではあまり見かけないかもしれない』。
剣術:「斬り込み」と「斬り落し」の違いは? この二つの技は、相手が打ち込んできたときの対応の違いが曖昧で、先日の稽古の時に『「斬り落とし」を受けてはだめだ』といわれて違いが明確でなかった。─『斬り込みは一度受けてからの攻めで、「後の先」に当たる。斬り落しは「先」であり、相手の攻撃を受けずに先に攻める技。因みに、待ち伏せなどで相手の準備が出来ていない段階を攻撃するのは「先の先」になる』。
中上段からの「初動確認」の注意・訂正点。─私が打ち込みをしたときに、『どこを見ている! それでは簡単に外せる。中上段からの打ち込みは足腰が動くのだから体全体を見る。』と注意された。確かに上半身(肩や腕)・剣に意識を集中して全体を見ることが無かった。今までなぜ気がつかなかったのか、と思うような基本だ。中上段だけではない、その後の八双からの打ち込みもそうだ。体全体を見るようにすると、打ち込みを交わせる本数が幾らか増えた気がする。
『剣は足腰で受ける』。─私の上段から打ち込みを受けた先生の剣は、下がらず上がらず。逆に私が打ち込みを受けると、受けた剣が下がる。下げまいとすると反発して腕で跳ね上げる。受けが拙いことは何度も姿勢・構えの悪さを指摘されているが、単に姿勢・構えだけでなく、受けた剣自体が上下動をしてしまうので、構えが崩れる。
ではどうすれば良いのか? 『上体でなく足・腰で受けろ』といわれるが、では、なぜ足腰で受けられないのか。踵から腰、上体、手と一直線上になった受けの姿勢・構えができていないか、あるいは、構えが良くても腕だけで受けている。受けたときに両腕が張っていて、力みがでているのが自分で分かる。腕・上半身だけの受けで足・腰で受ける意識がない。昨日の稽古の中では一度だけ、今のは好いと言われたが、足・腰の意識だけでは身体に伝わらないようだ。『何の拘りも無く、ただ受けるだけ』と以前教わっているが、私は何を拘っているのか。先生の言葉が遙かに遠い。
「四方投げ」:受けの小手を掴み側面に付いたとき、以前は受けの前肩を意識して崩すと教わったが、今日は掴んだ小手を回すようにと教わる。以前も今日も、同じことを別の角度から指導されたと考えます。崩し方は前肩を崩すよりも比較的易しい気がする。私は、掴んだ手首を相手の首の中を通しながら手前に落とす、といった表現で試みてみた。
剣術、基本の「受け流し」(型を技化する前段階の基本の稽古のこと):先生の動きを見ていると、剣を立てて入り身をするとき、左の小指側から入っているよう見えるので、何人かの人に真似て試したところ効果が見えた。先生からは『それでもかまわない』とのことであった。だが、その後の稽古で同じように左小指から入り身をするようにしたのだが、剣先が外回し(剣と剣の接点から我が剣の剣先を大きく回して相手の剣と離してしまう−理想的には相手の剣と我が剣が密着状態に近くする)になっていると指摘された。その時は、なぜ外回しになるのか分からなかったが、帰りの電車の中で気がついた。剣を立てて入り身をするとき、左手を入れることに気を取られ、手首の甲を外側に回していたのが原因のようだ。
「正面打ち一教」は稽古年数を重ねた力の強い人との稽古では難しい。腕力の強い人には甘い技では中心に入れない。もっとも、二教や小手返しも同様に難しいが、正面からの崩しとなる一教は、受けも踏ん張りが効く体勢なので押さえ込まれると動けなくなる。今日は力の強い人に対する難しさを実感。
剣術:ここ3週間ほどは居合ではなく剣術を教わっている。まず姿勢。姿勢が良くないと言われからは鏡を見て訂正をしているつもりだが、私の受けの姿勢について、だめだと言われた。『堅い。腕だけの受け。反撃ができない姿勢。剣を立てるときに弛む。隙のある構え』等々すべて良くないことになる。
腕だけの受けについても、『実践で分かるしかない』と言われ、何度も打ち込んでみる。この打ち込み、私と先生の一番大きな違いは、先生の受けの柔らかさだと思う。打ち込んでも剣が吸い込まれるようになるのだ。姿勢・構えは真似ることができても、あの柔らかさは真似られない。どうすれば柔らかく受けられるのか。胸で受ける(緩める)、足(踵で)、腰で受けると教わっているが。とにかく、受けに関しては全部ダメであり、以前、『フルコース悪い』と言われたことを思い出したが、ここまでダメ出しされたのだ。始めからやり直しするしかない。
「斬り込み」についても『受けてしまっている(受けだけで終わって「後の先」の先がない)』と言われる。それと、気の通しが切れてしまい持続・継続ができていないこともあるようだ。私自身は持続していると思っているが、どこかで途切れがあるようだ。
剣術に関しては悩み愚痴ばかりだが、一点だけ明るさが灯ったことがある。それは、水平にした剣に剣を立てての崩し技。先々週であったか同じ稽古を行ったとき、自分では崩せたと思ったのだが、先生は『それは力でやっている』と指摘され、稽古相手からも「一、二でやっている(二拍子の動作の意)」と言われた。
改めてこの技を先生から掛けられる。ほとんど力を感じない柔らかな当たりで、接点がずれることなく崩される。『合気は力ではない』のが実感できる。柔らかさを意識して何度か挑んでみたら、『信じていないだろうが、今ので掛かっている』と言われた。私も柔らかく掛かったと実感できた。それまでの崩しとは異質の崩しだと思う。先生『1週間持つかな(崩し方を覚えていられるか)』。これは大丈夫です。忘れませんと答えたが。その後の自主稽古で試したら『今までとは全然違う』とその人は感想を言っていたが。忘れたくない。
前回、剣術の姿勢・受けが良くなく、「堅い」と言われたことを書いたが、時間が経って、今回この言葉が気になり辞書を引いてみた。「堅い」「硬い」「固い」がある。なぜ、これが気になったのかと言えば、石川先生から言われた、“カタイ”とは、単に腕・体の動きだけを指摘されたのか。体の動きだと「堅い」が合うか。いや、それだけではなく精神的なもの、余裕のなさ気持ちの弾力性がないことか。となると「硬い」となるか。
とにかく、この言葉が気になったので、先生から指摘されたことを読み返してみると、ガチガチの体の堅さと精神的な余裕のない心の硬さの両方を指摘されているようだ。当然といえば当然か。だが、訂正するのは難しい→難い→相当の努力が必要、といわれているようだ。
今日は一教の稽古。腕力の強い人に掛からなかったことを思い出しながら教わる。『右手を掴んだときは、受けの小手は正中線に、肘は肩に向け、両手を伸ばしながら入り身をする』。両手を伸ばしながら、がポイントになると思う。といって両手を単に伸ばせ好いわけではないが。この稽古中に、先生から小手と肘を掴んだ時に『接点はどこだ』と聞かれ、私も含め、肘とか手首とかを答えたが、『何を演っていたんだこのクラスは!(教えたことを分かっていない)肩だ!』と叱責された。
自主稽古で、さっそく教わったばかりの一教の崩し技を試みる。腕を伸ばしながらの入り身は柔らかさがあり、私も受けと取りをしたが確かに抵抗が少ないことが分かる。ただ、両手の伸ばしに気を取られ、頭が突っ込むと技の効果が無くなることが良く分かる。やはり突っ込みはダメだ。
剣術「斬り落し−八双対青眼」:型としては、相手が青眼の構えから近づき、上段に変化して斬り込んでくるのを八双の構えから斬り落とす。「斬り込み」ではないので受けてはいけないのだが、私は八双からの斬り落しが苦手で一度受けてしまう。斬り落すことを優先すると、剣を横に払ってしまい相手の剣が落ちない。怖さが抜けない。先生からは『剣を中心に立てれば怖くない』と何度も言われているのだが。
剣術に進歩がない、できないと愚痴をこぼす。あきらめるのはまだ早い、今の段階で止まるようでも意味がない、もっと上を目指せ、といった意味合いのことを先生から言われ元気づけられる。
石川先生に伺ったことだが、剣術、例えば剣先を合わせての崩しを本格的意味できる人は、楽心館の在籍者には居ないと言われていた。外部の団体でも掛りのない形式で終わっている所が多いとのこと。それだけ難しく困難なことなのだ。そう聞くと私などはもっと気を楽にして稽古を続ければいい、などと思う。2月13日 473日 上げ手の訂正 上げ手の訂正点を教わる。上げ初めては良いが、途中から親指の付け根が離れてしまう欠点があると言われる。確かにそうなのだ。いろいろ直されたが、訂正を言葉にするのが難しく、大雑把には上げる途中での加速と、掴まれた時の指の形。やはり形がかなり重要である。
剣術「柄取り」が上手くできず(この技に限らないが)落ち込んでいたが、今日は、右手の押しと緩みを修正して試みたところ効果がでた。上手くできると気分もいい。
「斬り込み」は打ち込まれた剣を受け、その交点から剣を立てて相手の剣に乗せようとするが、相手の剣は落ちない(下がらない)。落ちないので剣を押し込む、あるいは押さえつけようとするが、剣をしっかりと掴んでいると落ちないし動かない。私ばかりでなく文京で稽古している参加者全員同じようだ。ところが、先生が試みると、両手で力を込めて剣を掴んでいても軽く剣が落とされる。私達からするとなぜ落ちないのか? となる。皆さん同じ悩みを持っていることが稽古の中で話題となった。
剣術稽古で話題になった接点からの剣の使い方、特に相手の剣が落ちないことについて、剣が落ちないのは力んで崩してしまうのが原因ではと考えてみたので、居合の稽古時に先生に伺う。
『基本的には姿勢が重要である。剣を受けた後、胸を緩める必要性がある』。この緩みは『膝の緩みが(当然)必要だが、頭は下げず、膝だけ緩む』。何度か試みる。姿勢だけ良くても効果はなく、胸・膝の緩みだけで掛かるほど簡単なことでもない。今までに教わってきたことが全て一致してできることで、始めて技が掛かることになる。この軸の立てかた・軸や相手への気の通し・胸足腰の緩んだ使い方に、「気と丹田の合気道は養氣錬丹である」と唱導されることの核心がある。しっかりここに、到達したいところだ。
剣術「斬り込み」:「横にどかす、捻る」と言われていたのが、先日に続いて胸の緩みを意識して行う。上手くできればぶつかりが無くなる(少なくなる)。特に右半身からの動きは交点が動かないので好いようだ。左半身では好くない。交点が動いてしまう。
「斬り落し−青眼対青眼」。型としては青眼の構えから近づき、上段に変化して斬り込んでくる剣を青眼から斬り落とす、となる。とにかく正中線に剣を振り下ろすことだけを言われて意識を集中する。『好いじゃないか』と言われる。「斬り落し」で効果が表れている、と言われたのは始めてのこと。同じ「斬り落し」の八双対青眼はできないから思い掛けないことだった。
好い、と言われても今日だけのことで、次回は元の木阿弥にならないようにしたいが、今年になって居合を剣術稽古に変えてきたことなどが、やっと効果として現れてきた気がする。剣術に進歩を感じる(?)ようになると、楽しさを感じるようになる。稽古始は中野から。新年の抱負を先生から聞かれ、私は目標を「柔らかな等速度」とした。昨年も目標を立てたが、大きすぎてしまった。今年の目標も難しいが6割ぐらい達成できればよしとするか。そして、夢として「初動を消す」と答えた。これができればほとんどの体術、剣術のかなり高度なレベルになれるだろう。夢は大きく!
剣術:技が掛からない理由の一つは、力みが出てしまうことだ。合気道も力んでしまえば掛からないが、技の精度が荒くても、スピードや力の強さプラスで相手を崩すことができる。だが、剣術では精度が高くないと掛からない。ごまかしが利かず、力で何としようとして体や腕に力みがでる。いや、それよりも、木刀で防具を付けずに打ち合うことが緊張を呼び、力みの原因としては大きいかも知れない。特に先生との稽古ではより両腕に力が入ってしまうことが多い。剣術は合気道より何倍も力んでしまう。
ここで気づいた。石川先生は「剣柔一体なのであって、柔剣一体とは言わない」と、話すことがあった。剣が主で柔が従、こうして見えてくるのが真の柔である、ということだ。
剣術:最近は「鍔競り合い」の稽古がよく行なわれるが、効果が有るときと無いときがあり、今日は効果無し。原因は不明。効果がある時との違いを思い出せばいいのだが、稽古中は指摘されないと分からないので、自宅に帰って稽古日誌を読み返して原因を探ってみる。と言っても、どんな動きをしていたかは覚えていないから、足りないこと、抜け落ちていることが無かったかの再確認だ。日誌の中に、頭を下げず胸の緩み、との記述があった。他の原因は思い浮かばないので、やはり頭の下げすぎが原因かと推測する。頭の下げすぎぐらい日誌を読まないと分からないのか、となるが、自分で確認するのはかなり難しい。パソコンに集中するといつの間にかパネルに顔が近づいている時があるが、似ているかな。
剣術:「鍔競り合い」は左手の緩みと頭を下げないことを注意して試みる。が、先生の剣が落ちない、途中で止まる。『落ちないね』と言われる。技が完全に掛かるまで気を抜かず、左手で柄を動かすことを心掛けてみる。先ほどより好いようだ。次に剣を立てたあと『剣に体を入れる』ことを指摘される。斬り込んだ剣を追うように体を運ぶとの表現でもいいのだろうか。家に帰り、今日までに教わった鍔競り合いの要点を箇条書きにしてみる。私の中では7項目になった。今後は稽古中にチェックしながら動けるようにしたい。
「四教」:掴みは小手のポイントに当てることだけを意識してもダメで、親指は折らず指の間隔を開ける、が今日教わったこと。今年中に昇段するつもりで稽古をしなさいと言われるが、どうだろうか。四教を始めて15カ月になるが、教わった当時はこれほど掴みが難しいとは思えなかった。年末まであと9カ月あるが。
剣術:Cさんと「鍔競り合い」の稽古。先日教わったことを頭に入れて試みる。が、Cさんの剣は落ちない。箇条書きの要点を頭の中で確認しながら、交点からの気の通しを深くする。好くなってはいるが、まだ何かが足りない。日誌を読み返えし、落ちていることを探してみる。二つほど考えられたが…。
稽古日誌を付けている利点の一つはこんな時だ。記憶力が低下し、ここ数年は教わったことの半分も記していないが、それでも読み返してみると足りないこと、落としていることを気が付く(思い出す)。見つけた答えが正解であるかは不明だが、稽古中に行っていなかったことを確認し、次回の時に実践できる。文字にして残している効果が出る。
「四教」:「返し手」と「落とし」をBさんに試みる。右手は効いているが左手は 掛かっていないと言われる。掛かっていないのは自分でも分かるので、左手の掴み手を確認してみる。右手と同じように掴んでいるように見えるのだが。左手は掴んだ感 触、密着感が今ひとつ右手とは違うのだ。ポイントがズレているのか? 「三教」の掴み手は反対で、利き手の右手からの掛かりが悪い。
剣術:「鍔競り合い」の稽古。いつものように先生の剣が途中で止まる、落ちない。剣が落ちないことについて、先生からエッと驚くようなことを教わる。『胸の中央を見るのではなく体一つ右側を見ながら交点から斬り込む』と。何と正中線ではない? とにかく教わったように試してみる。さらに『左目で正中線から上体の右側を見ながら斬り込む』とも言われる。
なぜ正中線ではないのか? 『人は左右の目を使って見ていると思っているが、片方の目(右目)でみる癖がある、視点が左側にズレる(今日の日誌は稽古日当日に書いていないので表現は正確ではない)』そうだ。この視点のズレに関してはまったく思ってもいなかったことだった。
片手取りされた状態から、(例えば左手を掴まれたら)右手刀を掴んでいる先生の手首に当てて外す技(技の名前は不明で、先生は確か「小手の合気」と言われていたと思うが)をこの2カ月ほど前から行っていたが、やっと外し方が分かってきたようで、今日はその成果がでた。まだスピード頼りになるが、腕力ではなく外せるようになってきた。
「三教」:立ち技の右手からの三教掴み手は、左手と比べて掛かりが悪かった(受けが仰臥した状態からの掛かりは、左右の差がなく掛かるのは以前にも記した)。掴み方を変える、入り方を変えるなどしてみたが、効果は得なかった。今日は先生から『掛かりを少し早くしてみる』と言われ、右手の掛かりを普段よりもやや早めにしてみると左手と同じ効果がでた。左右の手は同じように使っているつもりでも、当人がそう思っているだけで、動きが違っていたようだ。数年前に『左右の腕の硬さによって技の掛かりが違ってくる』(日誌に書いてあった)と教わったことを思い出したが、ほんのわずかな差がとても大きな違いになって表れる。
前回、前々回の稽古日は目眩いがするなどの不調のため、剣術の稽古は止めて帰宅するなどしていたが、今日は体調が戻る。
「上げ手」:上げ手は『相手の体(手)を上げよう思ってはいけない』と先生。が、上げようとする気がでるのは当然のことで、むしろ上げる気を持つことが必要ではないか。しかし、『上げようとする気が障碍になってぶつかりを生じる』とのこと。では、先生は無心で動くのか。『崩す方向は決まっているので、そこへ導くだけ。当然、肩への崩しの意識は持つ』。二教・三教でも同じで、『落とそう、倒そうなどの気は必要でなく、ただ、崩す方向へ導くだけだ』と言ったことの説明を受けたが、私には理解できない、分からないが正直な気持ち。
例えば、普段稽古している人達とは、正中線・肩への意識を持つ程度で、上げようとか崩そうとする意識はあまりない(初心者時代は倒したい、崩したいとの気が強くあったが、最近はその気が少なくなってきている)。しかし、これは普段稽古している人達だからで、飛び入りの参加者などがあれば崩そう(上げよう)とする意識がでるし、相手が初めての人であったりすると、技が掛かるかなと言う気があるから、その意識はでる。また。先生との稽古では、正確に精密に動くと同時に、何とか技を掛けたい、崩したいとの気持ちが強くなる。
相手・条件によっては崩そう、落とそうとする意識がかなりある。この崩しの意識が強いと体の筋肉の張り力みに繋がるから、その意味からすると、上げようとする気が障碍になり、加速してぶつかりを生むことになり、マイナスに働くことにはなるだろう。ただ、上げようとか、崩そうとする意識を持つことは誰にでもあることで(と思うが)、意識・意欲があるから向上する。力みに繋がる強力な意識はべつだが。なので『崩す方向へ導くだけ』とは…。私は石川先生から技の決め付けが強いとよく言われる。そのこともあってのことかもしれないが、かなり高度な心境、技術が裏打ちされないと出来ることではないと思う。
剣術:交点がなぜ動いてしまうのか? との質問には『剣を下げるからだ』とのこと。動いてしまうのではなく、自分で動かしているのだ。稽古相手が動かしているのではない。言われてみれば確かにそうだ。剣が落ちないに関しては、剣が落ちる、落ちないの問題ではなく、『剣に入るだけ』である、とのこと。
今日は久しぶりに居合と剣術を半々ずつ稽古。居合は1月以来なので忘れかけている型もあった。剣術は交点からの崩しだ。剣を合わせ、掛かりに入る寸前に先生から『駄目だ、だめだ』と何度も指摘される。『駄目だと言っているときに続けても意味がない』とも言われる。駄目×駄目はいくらやっても、何の生産も始まらない。そのあとの何度かの稽古で、今のは効いていると言われる。では、何が良かったのか、何が悪かったのか? 駄目だと言われたときと、何が違っていたのか。
改めて先生の両腕を観てみる。剣を掴んだ三角形が、交点からの入り身になっても変化がなく、両肘は開かずに剣を乗せる。肘を開かない、肘を曲げていないのだ。やっと気が付く。三角形の維持だ。その後の自主稽古時間ではもちろん訂正して同門者に試みたが、気が付くのが遅すぎる!
剣術:組稽古で同門者の剣の動きを観ていると、剣先が開いて(剣先が直線でなく円を描くように外に膨れる)いる時は掛からない(もちろん私もそうなのだが)。先生の剣先は構えた位置から中心を通り内側へ入ってくる。つまり、直線だ。構えた八双の剣を体の正面に向けながら(柄の位置を中心に維持したまま)真っ直ぐに腕を伸ばし、剣を斬り下げる。剣先は開かず、柄の位置が常に体の正中線にある。
では、私はどうしていたか?剣が先に動き、柄が正中線から離れる。逆に体が先に開き剣が遅れ正中線から離れる。剣と体の動きが合っていても剣先が開く(弧を描く)。この中の剣先が開く、が難しい。これは心理的な影響がかなりあるからだ。垂直である青眼の剣に八双から剣を合わせる(斬り落とす)ときに、実際はやや剣を斜めにして受けるが、その状態では斬られるとの思いから(剣が交差しない、交差しても僅かだ)、我が剣を横にして払う(十字形にして安心感を得る)意識が出るので、剣先を開いてしまう(当然柄の位置もぶれる)。
鏡を見ながらの一人稽古では、直線に剣が動けるが、斬り込んでくる相手がいる組稽古では本能的に動いてしまう。この辺りの心理状態は他の同門者も変わりないと思う。『剣先が開いている』とはよく指摘されることだが、誰しも怖さは同じだ。しかし、これを乗り越えないといけない。『剣を中心に立てれば怖くない』は頭の中だけ留まっている。剣先の開きを直すには地道でも剣を直線に動かすことの繰り返ししかないのでは。
剣術:八双からの袈裟斬り。基本動作だが、この基本で交点から崩すと言われる。剣体一致が出来ていないと話にならない。剣を常に体の前に置く。直線に腕を出す。基本を繰り返し行う。何度も何度も。早い動きは必要ない。緩やかに剣を振り、交点からの崩しをする。
剣術:基本技の「受け流し」。手だけでなく、足の踏み込みをしっかりして入り身を心掛ける。一人稽古の左右からの袈裟斬りを意識してのこと。直線への足の踏み込みを意識して入ると、今までと違って自分の小手が相手の小手の上に乗るようになった。「柄取り」は先日まで掛からなかった人に掛かった。相手が緩く対応しているかも知れないが、方向性が合っていれば好いのであって、あとは精度を上げること。基本の技三本が進歩していることが確認できたのは初めてのことだ。
「小手返し」:小手を掴み、受けを見ながら袈裟に斬る。先週と今週、このことを意識して何人かの人に試みる。
剣術:木刀を持つ両腕が力んでいる時がある。打ち込まれた剣を受けた時が当然多くなる。上腕部の力みは肩の力みでもあるから、剣の扱いに柔軟性が無くなることは当然だ。私の受けが『堅い』と指摘されたのは今年の始めだったが、『胸で受ける(緩める)、足(踵で)、腰で受ける』がまだまだ出来ていない。腕で受ける、上体で受けるが直らない。
「一教」: 受けを崩すときに上半身からの動きでは前傾気味になり、肩・腕に力が入り腕力での崩しとなりがちだが、今日は無意識に腰から動いていた。上半身からの動きとは違って突っ込みがなくなり、力のぶつかりが少なく、やわらかに崩せる。腰から動こうとしたわけではなく、気が付いたら腰から動いていた、が好かった。全ての技に共通してできるようになれば一歩前進と言えるが。
「四教」:表の掴みが 『肩まで気が通っていない』 と指摘される。 単に手首が痛いだけだそうだ。 この『気を通す』。言われるようになったのはいつ頃からだったか。 二教を教わる頃からではなかったかと思う。彼我の接触している小手を通して気を通す、気を入れると教わったが、そう言われても理解するのは難しかった。初心者の多くの人が同じではないだろうか。 『気の繋がり』 を教わったときも分からなかったが、“通す”よりも分かりやすかったのは多少経験を積んだためと思われる。分かりやすいと記したのは言葉の上だけのことで、稽古の中でどうすれば相手と“繋がり”ができるのかは、まだ分かっていない。
改めて『気を通す』を手元の辞書を引いてみた。似たような言葉では「気を入れる」があるが−本気になって取り組む−と書いてある。広辞苑では「気を通す」があったが、−気をきかす。粋をきかす−となっている。両方の言葉を繋げて、“本気になって取り組み気をきかす”、とすれば分からないでもないが、武道用語としては今一ピンとこない。『気を通す』を別の言葉で他の人に説明しろ、と言われると難しい。私が聞かれたときには、「槍を投げるように自分の気を正中線・直線に」と言ったこともある。私なりの感覚を表現したつもりだが、聞いた人はさてどう感じただろうか。武術用語を言葉で説明するのは難しい。稽古を重ね経験を積んで分かるしかないようだ。
剣術「受け流し」:まず 『しっかりと剣を立てることだ』、と改めて指摘される。確かに剣を立てたようにしているが立っていなかった。 立てるのではなく剣を廻しただけ。気持ちが逸り、早く動きたい気持ちが先立って雑に演っている。ごまかしている。気持ちを抑えるとか、じっくり行くができない。何も焦る必要はないのに。
「斬り込み」:受けた剣の位置について注意点。物打ちで受けることが出来ず鍔に近いところで受けている。今日も同じ位置で受け、斬り込みが出来なかったときに具体的に注意される。相手の剣を受けたあと交点を軸として剣を立てるが、この時、『物打ちで受ければ交点を軸として剣を回す(立てる)と、柄が胸前になる。しかし、鍔に近い位置で剣を回すと柄が目の位置になり、斬り込みなどはできない』と先生。柄が顔の前では両肘が上になり、剣を自在に動かすことが出来にくいので柄を下げてしまい、交点が下がって掛からなくなる。
剣の素振りに関し、絶対速度と相対速度の話があった。相対速度に関しては、でんでん虫を引き合いに、見た目は遅くともいつの間にか進んでいること。この動きは初動が分からない(分かりにくい)ので打ち込みを避けるのは難しくなる(あれっと思ったときは剣が目の前にきている)。絶対速度は@動体視力を強化(訓練)することで見切れる。体の動きが相手に分かるA初動と中間の速度に差がでるので見切り易い。そんな説明だったと思う。
剣術:相青眼からの「斬り落し」は好くなっていると思えるが、斬り下げることは出来ても、剣を落とすまでにはなっていない。先生の剣を見ていると青眼から上段に挙げたとき、剣先が頭一つほど横にして振り下ろしている。その構えから剣を振ると、体の正面で相手の剣を斬り落とすことになる。私も先生に倣って上段の剣をやや右にして、拳一つ二つほど正中線からずらして振り下ろすことを心掛ける。それと型が決まるまでの気を抜かない。これからはこの2点に気を入れていきたい。
剣術:毎回、稽古開始前に『今日はどちら(居合・剣術)をするか』と聞かれ、「どちらでも好いです」と答えることが多かったが、今日は「剣術を」と言ったら『剣術が面白くなってきたのか』と先生。確かにその一面はある。剣術がつまらなかった訳ではないが稽古年数を考えるとほとんど進歩を感じなかったのが、やっとと言うか、ここ数ヶ月の間にいくらか前進したように感じるようになり、同時に出来ない技を何とかしたい、との意欲に繋がっている。平たく言えば、掛かるようになった技を試してみたいのだ。
今日は基本から組稽古まで行った。@「合わせ」:以前から指摘されている、『気を見せない(斬ろう、当てようの)』については、斬るとか、崩すとかの意識は『思ってから動くのではなく、思ったときは終わっている』ことが必要で、言ってみれば、一(いち)で動くこと。斬る・崩すとの意識を起こしてからでは、相手に察知される。気を持つことは必要だが、気を外に表さないと言われる。斬ろうと思うから相手に剣を向ける(例え襲われたにしても)ので、なぜ気を見せてはては、いけないのか、との私の疑問については上記したようなことであった。(注 「気を見せない」と「気を出さない」は、同意ではありません)
『気を見せない』は剣術を行うときの常時の心構えとなるのだろうが、私は気持ちがそのまま顔に出てしまう。意識すれば表情を出さないことは出来ても、稽古を続けるうちに気が入ってくると表に出てしまうこともあるようだ。石川先生は直ぐに分かるそうで、『気が見せている』とよく指摘される。表情を表に出さないことを考えていたら(50代前の人は知らないだろうが)、なぜか、何十年も前になるが、映画「眠狂四郎シリーズ(主演・市川雷蔵)」を思い出した。冷静にして沈着、無表情で剣を使う。殺陣(たて)の柔軟さ、色気、演技力など当時は大変な人気役者だった。制作者(あるいは市川雷蔵が)が主役のニヒルな面を引き出すために無表情演出したと思うが、とにかく、顔や体に気を出さないだけでなく、一(いち)で動かなければいけない。至難のことだ。
A「斬り落し」:相青眼から拳一つ二つ変えての斬り下げは良いと言われたが、先月の日誌に記したように、斬り落とすまでにはなっていない。稽古では振り下ろした剣は手首まで斬り下げると教わるが、手首に当たると怪我をするとの気が緩みが生じてしまい、お腹の辺りで止めてしまう。最後まで気を抜かないことが必要だが、手首まで振り斬るつもりでも心の中で止めてしまう。先生は『手首に当てるつもりで弛めずに振れ。当たっても大した怪我ではない』 と言われる。「斬り落し」を習得するには今の振りでは叶わないのだから、弛めずに振れるように努力したい。ただ、同門者同士では気になる。やはり弛む。
「気」:気について次のような体験をした。私が剣を水平にし先生の身体を思い切り止める。先生が剣を立て腕力ではなく丹田から入って崩される(止めようとしても止められない。ぶつかりを感じないで後方へ下げられる)。私が試みると手・腕で押してしまう。手ではない丹田から、と言われてその意識で行っても先生のようにはならない。しっかり押さえられると先生は動かないのだ。何度か稽古をした後、先生が剣を立てた姿勢で止めたとき、「気」を感じた。モワッとした、フワッとした感覚である。これに関しては次のようなことを言われた。『気を感じるだろうが、気とは、姿勢、形、居合などの技の習得が出来上がった状態の上に発生する。また同時に、この気を誰でも感じる訳ではなく、受けが感じられる程度の習熟段階になっていないと何も分からない』。「気」自体を養成する、養成できるののではなく、培ってきた体・形・技を練ることで養成できるのだ、とのことである。
掴みが悪いと技が掛からないのは「四教」ばかりではない。「二教」「三教」「小手返し」も同様だ。親指の使い方、位置が大事になる。技が掛からない、技の掛かりが悪かったら先生の掴みと動きを真似る。真似ると言っても初心者のころは真似る余裕もなかったが、とにかく目で見て覚える。忘れたらまた見る。見たとおりの掴みで動く。型は大切。その次に形に進む。石川先生のいう形とは、身形(身体使い)の意味で定義し、型と区別する。
今日、小野派一刀流剣術の初段指許しの免状を戴く。体術と同じで初段に見合った内容の剣術にしないといけない。
四教・返し手:『掴みが良くない、利いていない』と言われる。再度先生の掴みを見直し「繋がり」を意識し、居合の「血振り」で動く。それまでと違って先生の肩が返る。左手も同じように意識して動く。まだ確信とまでは言えないが、やっと繋がる感触・感覚が分かってきたような気がする。
稽古中に、「繋がり感覚と、気の通しは同じですか」と質問をしたところ、その違いについて説明を受けたのだが理解するのが難しかった(私だけかも知れないが)。違いを言葉で説明するのは難しいのではないかと思える。例えば二教における気の通しと繋がり感覚と比べると、二教での気の通しは一方的(と感じている)だが、繋がり感覚は文字通り受けと繋がって離れない、単純な例えで言えば“気の通しは一方通行”で、“繋がり感覚は双方向通行−橋を架ける”と言った感覚だ。この例えは、まったく感覚的な、強いて言えばのイメージだが。
稽古終了後Aさんが「繋がる」とは、「固めること」ではないかと言って次のようなことを言っていた。「小手返し」なら受けの小手を掴んだとき、小手自体を動かさないようにする、固めることで技を掛けやすくする。固めるとは何もギュッと握るのではなく、当然意識の上で固める意味だと思うが、その上で気を通す。おおよそこんな感じのことだった。Aさんの「固める」を実践しながら稽古してみたが、感覚的な私の言葉よりも、分かりやすい捉え方だと思う。「繋がり感覚と気の通し」の違いについては今後の課題として勉強していきたい。
先日の稽古で肩を回さずに崩す「小手返し」を行ったが、今日も同じ稽古。肩を回さないとは、小手を肩方向に向けずその位置で崩す技。『肩への(回す)崩しは初心者向き』 だそうだ。 受けの小手を動かさずに相手を崩すのには、『小手返しは繋がりがすべて』とのこと。小手を掴み受けの上腕・肩に向けて気を通す、あるいは、“繋がり”感覚を持つ。少なくとも掛かりは好くなる。拳をがっちりと固めた状態からではないので、受けの甲を折り曲げる動きも行っていた。静止した小手返しの崩しは繋がり意識を持って行うと違いが分かる。
剣の「初動チェック」の稽古。八双の構えから、肩を軸にして剣を振ることを最近試みている。単に肩の動きを出さないことを考えてのことだが、左半身では左肩を軸にして右から剣を出す。従来の動きでは右剣を出すと、体の中心で捻り左肩の引きが出て動きが分かっていた。鏡を見ながら肩を軸にしての動きは分かりづらいように見える。初心者段階のことといわれそうだが気が付いたら直す。しばらく試してみる。
「暑さ寒さも彼岸まで」とは言うけれど、一向に涼しくならない。中野道場は夏は 暑い(冬は寒い)のでボーっとして頭が働かない(暑さのためだと言い訳できる)の で記憶力が減退する。剣術の基本的な訂正点は『頭をまったく動かさない、相手が崩 れるまでの継続した気の通しと、剣に身を入れる』。剣術・体術共通の基本だが身に 付くまでにはなっていない。
苦手な八双からの斬り落しは、@『受けた剣の位置(接点)が低い』と再三直され る。接点が低いとその後の反撃、崩しの技が掛からない(掛かりにくいが正解か)。
A『剣をもっと立てる。居合の「月影」(正座から抜刀、剣を左やや斜めに立てる。 以下略)と同じ型で、やや剣を斜めにする』。私は剣を寝かせすぎている(技が掛か らない、掛かりにくい)。この2点を徹底的に直さないと何時まで経っても、受けて るだけで終わりそうだ。
「鍔競り合い」:なぜ、柔らかく剣を崩される(落とされ)のか不明。と言うより 不思議である。気の通しだけでは柔らかさがでないし崩せない。と書いても体験がな い方には、“柔らかく崩される”ことが言葉では伝わらないと思える。体術で柔らか く崩されることと同じことではあっても、身体を直接しない、木刀を通した崩しが、 体術よりも柔らかさ感じるから面白い。柔らかいと反発心がない。順応する。理想の 崩し技ではないだろうか。
稽古中、右半身の時に相手の左肩を崩す、と以前教わったことを思い出した。もし かして、二教における肩の崩しと同じか? 私から見れば右半身で剣の接点を作った とき、相手の右肩に入り身する。二教の片手交差取りの崩しだ。あるいは右片手取り からの受けの左肩への崩しである。今年の2月の日誌に「斬り返し」で相手の剣が落 ちない原因を『基本的に受けた姿勢が大切である。剣を受けた後、胸を緩める必要性 がある』。この緩みは『膝の緩みが必要だが、頭は下げず、膝だけ緩む』との記述が あったが「胸の緩み」はまるで忘れていたことだった。次の記述日で胸の緩みで効果 があったと書いている。覚えるには時間が掛かるが忘れるのは早い。
最近の稽古は「中心と緩み」即ち「氣と丹田」の養成。型をこえて身形(みなり)の体得になりました。石川先生の指示も、言葉は穏やかだが、「どうしてそれが分からないのだ!」と言わんばかりに目がマジになっています。
掴んだ小手を静止状態から真下に落とす「小手返し」。受けの右小手を掴んだとき 『右手だけで使って崩そうとしている』。確かに甲に当てた左親指は単に当てている だけだった。左手親指からの掛かりが必要で両手を使うことになる。「四方投げ」: 小手を掴み受けの側面についたとき、従来は肩の外側を真下に崩すと言われていた が、『肩の胸側に落とす』。掴んだ小手を回して崩すのは初心者向きとのこと。
剣術「鍔競り合い」:崩しに関して『柄を掴んだ左手は常に臍前に置く』。剣を立 てるとき、右手は方向を示すだけなので左手で柄を動かす。この時、左手は臍前にす る。右半身の時は右足がでているのでやや左になる。鍔競り合いに限らず他の技でも 皆同じとのこと。観ていると先生の両腕の位置は肘を曲げない、手首が動くだけ。
さっそく試みたが、『裏技は効いているが表技(右半身)は重い』とのこと。なぜ かと言えば左手が弱いからだそうだ。普通、左手の掛かりが好いのは左手の力の弱さ (右利きなら)が理由のようだ。「重い」に関してはなぜそうなるのか、説明されて も理解できなかったが、一で動いていない、と言った意味合いではないだろうかと 思っている。また、剣術では息を止めない。普段と同じ呼吸で行う。「上げ手」:先 生の掌を観ると小指は伸ばさず曲がっている。『掴まれた掌は朝顔の手にする』。
先日、ある人と稽古したところ、上げ手・転換は良かったが、二教が掛からなかっ た。稽古する中で何か抜け落ちていることがないかチェックしたかったので二教の稽 古をお願いする。まず、『相手を崩すには、入り身と転換が必要で、始めは入り身 だ』と先生。「交差取り二教」は、上げ手で崩して掴み、繋がりを感じ、受けの肩・ 手を手前に崩す。「片手取り両手持ち二教」は、右手を掴まれたときは受けの右肩を 狙い、転換で崩し「交差取り二教」の型となって崩す。「肩取り二教」では、掴んだ 小手・肩を手前に落とすように技を掛ける。以上、今まで教わった復習だ。
この中で「交差取り二教」は、私もそうであったが、掛からない原因の多くは、掴 んだ小手を掌に力を入れて捻る、あるいは押し込んでしまう。相手に入る、気を通 す、繋がる、緩むが全くなかったか、何かが欠けていたのが先日掛からなかった原因 であったと稽古の中で思いだした。簡単に言えば基本が抜け落ちていたことになる。 これでは技が掛かる訳がない。
剣術「受け流し」:剣を受けた後、我が剣先を回す、急ぐ。私の悪い動きがでる。 まったく良くない。さらに『剣を立てたあと剣に入れ』と指摘される。同時に、もっ と大事な相手を斬る気が抜けている。気の通しがないと剣が落ちないが、気を入れな がら体を入れなければ剣は落ちない。
「緩みと繋がり」:『胸を緩める』とか『単に緩める』もよく言われることだが、 では、何時の時点で緩めるのだろか? 例えば剣術の接点の稽古ではいくつかの段階 が考えられる。@相手の剣と我が剣を交差する。A交差した剣を立てる。B立てた剣 を相手の剣に乗せる(斬り込む)。@の「剣を交差する」段階から緩んでいては、緩 み自体が居着いてしまう気がする。「一瞬の緩み」ともよく言われるからやはり技に 入るAの剣を立てた時か。こんな疑問があったので居合の時間に先生に伺ってみた。 が、私には意外な答えだった。
『緩むとは常時緩む』ことで、『緊張する、あるいは張っている状態から緩み状態 になる』と考えるのは良くないそうで、少なくとも体術や剣術を演じている時は緩み 状態になっている。だから、緩み状態から必要に応じて、繋がり感覚を得るとなる、 とのことであった。「繋がり」との関係で言えば、『繋がりとは剣を合わせる前から 繋がる感覚がある』そうで、これも始めて聞くことだ。私は、剣術は接点ができてか ら繋がり意識を持つものだと考えていたのだが、言われてみると納得できる気もす る。それは体術においては「持続的な気の通し」も同じことであると気が付いたから だ。だから、何時の時点からとの答えは、@の剣を合わせる以前、剣を携えた時点か ら緩みと繋がりを得るとなる。答えは解った。だが、凄い持続力・集中力が必要では ないか。