最終更新日 2010年12月8日
稽古始は中野から。新年の抱負を先生から聞かれ、私は目標を「柔らかな等速度」とした。昨年も目標を立てたが、大きすぎてしまった。今年の目標も難しいが6割ぐらい達成できればよしとするか。そして、夢として「初動を消す」と答えた。これができればほとんどの体術、剣術のかなり高度なレベルになれるだろう。夢は大きく!
「初動を消す」には、三段階あるとの話があった。「蓄・暗・霊」。蓄とはこれまで話したとおり、動きの貯めを作ること。居付きや準備をすること。私はまだ、この身体的段階です。
第二段階が暗。「行くぞ」と心の気配が暗となって、相手に写る事。これはもちろん受けてくださる方に、その感じる能力があってはじめて、なり成り立つ稽古です。ここは心的段階です。
第三段階が「霊」。心の明暗が消え、しかも透明な意識と形が一致していること。それをもって意心形心というのです。楽心館のテキストの名称でもあります。入門したときから聞いていながら、遠い目標です。「先生、どうしたらそれが出来るんですか?」と聞いても、先生の答えは明快です。が、今回はこのことを書かないことにします。
頭、肩の突っ込みをしてはいけない、膝は緩める。こうした基本動作が出来ていないことがある。とくに頭の突っ込みだ。膝の緩みは自分で確認できても、突っ込みは動きの中での確認が難しく、『また突っ込んでいる』と言われるように、私は前傾姿勢になってしまうことが多いようだ。確認が難しいと書いたが、稽古中に相手の人が突っ込んでいると注意をすることもあるし、もちろん軸を立てることを確認して稽古することも多いのだから、要は意識が薄いことになる。やってはいけない基本動作が頭の中で出入りしているだけで、身に付かない、留まらない。
今日も剣術の稽古中に先生から厳しく注意された。突っ込みだけではない。『剣に身が入っていない。交点が動く。横振りしている』等々。剣術の難しさは何度も書いていることだが、泣き言を言えば、木刀が言うことを聞いてくれない。
だが、木刀に言わせれば、「使い手が悪い。教えられたことは覚える。忘れるなんてとんでもない、例え忘れたとしても、何度も教わっているのだから、理由にならない(歳のせいにしない)。基本を忠実に、習ったことを確実に行うことだ。もっと稽古をしろよ!」と言われそうだ……
私が教わっている「無限神刀流居合術」のなかに、腰に差した刀を平(柄−鞘を横にする)にして抜刀する型がかなりあるが、今日はこの平(ひら)にする動きを直された。立ち技「追い討ち」は小走りしながら柄を平にして抜くが、平にする時に左手の動きが悪いと指摘された。『刀は腹で抜く。腹前は空けない』。腹を押し出すようにして、柄を腹に染み込ませるようにしながら平にするとのこと。
改めて先生の動きを見ると、たしかに左手が腹前から空かない、柔らかな動きだが、私はくるっと柄を横にするだけ。だから腹前が空いてしまう。簡単そうに見えても、気がつかないまま続けていたから直しが簡単でなく、道場の鏡を見ながら動いてみると、手の動きが堅い、柔らかさが出ない。ダメだダメだと言われ、何度もやり直す。
ノロウイルスに罹ったため先週の稽古は休んだ。その間、〔居合の型〕の加筆・訂正をしていた。教わった型の手順等を文字にしたのは忘れないため。何度かの稽古で手順を覚えると、それを書き記しておく。細かい動きなど不明な点は分かった段階で加筆、あるいは違っていたところは訂正する。
この〔居合の型〕を記し始めてからほぼ2年となる。手順だけは、座り技、半立技、立ち技(二〜三の型以外)を覚えたが、手・足腰の動きに剣の動きが重なるから、剣の動きを文字で表現するのは簡単ではない。順序や表現の仕方を今も気がつけば訂正している。
忘れないために始めたことだが、手順を読み返してみると、なぜこんな動きをするのか分からない動きに、改めて気がつくことがある。この辺りが文字にした利点でもある。居合の型は状況設定を理解していなければ意味がない。不明な動きについて先生に教わることで納得ができるし、覚えも好くなる。教わった動きの意味は書いてはいるが、まだ一部だけ。一挙に教わっても覚えられないのと、自分で動きの意味を推測してみるのもいいし、先生にそれは違うと言われるのも居合の理解力が増す感じになる。
気の通し、をテーマにした稽古。「合気上げ」に関しての訂正、注意点。(1)小手からの力が一点に集中していない、分散していると言われる。技術的なことでは、(2)上げたときに受けの手と離れてしまう。崩しが肘だけで肩まで繋がらない。
(1)に関しては、なぜ分散してしまうのかは不明だが、テキスト〔意心形心〕には呼吸力の養成として、「船漕ぎ運動」、「上げ手」、「正面打ち一教」などの練習の中で《脱力した状態から、エネルギーを相手に伝える。身体の中心から動く、全身の反射動作を使う》と記してある。となると、中心から(丹田)動いていないので受けへの伝達力が弱いことが、集中せず分散する原因となるのか。(2)に関しては、受けの掌と密着していないといけないのに、上げた時の手の向きが悪い。だから肩までの崩しに繋がらないことになる。これらのことは『初段審査の時にできていないといけないことだ』。もっと努力、研究しなさいと言われる。
居合:刀を抜くときの訂正点。(1)柄を掴むとき、これから掴みますとの動きが見え見えである。(2)太股に置いた手が柄を掴むとき動きが大きすぎる、遠すぎる。だから、『柄は最速、最短で掴む』。なるほど、これから刀を抜きますと分かるような、身体の動きが出ていては相手に勝つことはできない。掴むまでの体の初動を消したとしても、肝心の柄の掴みが遅ければ同様だ。
今日は「真理平凡」に記載されている「手解き・片手交差取り抜き取り−その一」の稽古。先生は、片手取り上げ手を交差取りにしたものだと言われていた。掴まれている側の膝・腰を使い、掴んでいる受けの肩を崩す、と教えられる。テキストには、「三角の作り方、臍下丹田、股関節と膝の脱力感覚が大切」と書いてある。手解きだから相手を投げるとか、押さえ込む必要はないわけだが、初めは押さえ込む意識が強くなって、捻る動きになった。初級クラスの人にはなんとかなると思えた。しかし、先生には崩すことができない。
そこで要点を教わる。『力みすぎだ』と言われる。私の手指を柔らかくほぐし、今だと言って掛けさせる。掴まれている小手をかぶせる感じだが、何のぶつかりも感じることなく先生が崩れる。力もそれまでの十分の一ほどだ。『それで好い。嘘だと思っているだろうけど掛かっている』。力み、捻りなどは必要でないのだ。結局、いつも教えられていることを忠実に行えば好いのだ。と言ってもそれが実践できないのだが。
ここでお断りしておくが「何のぶつかりもなく先生が崩れる」と記したが、この「先生が崩れる」との表現は何度も記したことがあるが、 100%先生が崩れたとの意味ではない。先生が止めようとすれば、私は崩すことができない。なぜかと言えば、私の技の精度に甘さがあるからだ。では、なぜ先生は崩れるのかと言えば、精度が低いからと言って止めてしまっては、私は(あるいは私達は)技の理を覚えることができないし、技術的な向上が難しくなる。これを「師とならば 弟子を立てるを 旨とせよ 己が強さを 示すべからず」と、歌うそうだ。
理にあった、崩しの基準や方向性(技術目標と言った意味です)が合っていれば良いのであり、精度が5割か6割でもその人の力量に応じたことが出来ていれば、先生は崩れる形を取られる。表現としては「掛かる」と言った表現が正確のようだ今後はそう表記したい。仮に私 (私達)が上達したとすれば、それぞれの上達に応じた止め方、掛かり方をされることになる。
今日は普段よりもかなり早く道場に着いたので、稽古開始まで鏡の前でじっくりと時間を掛けて居合の練習をする。半立ち技に「木の葉落し」がある。上段からの斬り込みに己の剣を右肩に当て、上体を左へそらせて相手の剣を受け流し、反撃して斬り返す手順だが、肘、手首の使い方も含めて上手くできない型でもある。とにかく、手順どおりに動いてみる。居合は素早く動くとの意識があるから、緩急の必要性はあってもできるだけ早く動くようにしていた。しかし、鏡に映る己の動きはどうも好くない。滑らかさを感じない。堅く、ぎこちないのだ。そこで、少しゆっくりと動いてみた。うん、こちらの動きがよく見える。柔らかさ、滑らかさを感じた。
たまたまその時、先生が道場に到着されていて、私の動きを、『今の動きは好いよ』と言われた。同じ感触だったので良かった。もちろん、ゆっくりとした動きの中で、素早く動くところは動くことを意識したが、今の段階の私にとっては、やはり力まず、ゆっくり動くが必要であるようだ。この動きを積み重ねて緩急のある、流れるような動きが目標だ。こんな時一言掛けていただけるか、いただけないかの差が大きく、師弟関係の大切さを思い知る。この一言で稽古の方向を発見もし、見失いもする。
稽古開始前、先生から、『軸の崩し方の要点はなにか? Sさんズッコケないで一つ言ってみて』と質問。『エッ、アッ、一つは軸を立てる』と、いきなり振られ、いつものようにオタオタしながら答える私。で、あとは他の人達が、等加速度、相手を見る、直線と答える。帰宅してから要点を単純にした標語!? を作ってみた。「一軸、二中、三直、四等」 一に軸を立て、二で相手を見る(正中線の意識)、三は直線に入る、四で等加速度で動く。
稽古は、「手解き・片手交差取り抜き取り−その二」。まず、2週間ほど前に中野道場で行った「その一」の稽古。膝・腰の柔らかさが大事で、受けを横に崩す。掴んでいる受けの、肩への崩しの方向が違うと掛からない。次に「その二」。同じく肩への崩しが必要だが、違いは (テキストには、参考・巻き太刀と書いてある)掴まれた手首を巻くように、拳で真下に崩すこと。
居合を始めた当時、座り技−正座状態から演武を始める時は、まず、「浮き身」になると教えられた。当初は「浮き身」がどういう状態を指しているのか分からなかった。武道用語としては私の考えでは「浮き身」は浮き草と同じで、根が付かない自由に動ける状態で、相手の攻撃に直ぐに反応できる体勢と言った程度である。では、生身の人間の「浮き身」とはどんな状態なのか。今日の稽古で教わることになった。
石川先生が正座をし、正面から肩を押させる。この時、先生は肩に乗せた人の小手を掴んでいる。今日の参加者4人が交代で押してみるが、倒れない(体が起き上がらない)。力溢れるIさんが押しても倒れない。次に、私が先生の肩を押し、さらにM君が私の背中を押す二人掛かりで押してみたが、やはり倒れなかった。私達も交代で正座となり、同じように肩から押してもらったが、簡単に起こされる。
一昨年であったか、上石神井の道場で、先生が俯せになり子供達(小学生の低学年4〜5人だったと思う)に体の側面から押させて倒す(起こす)ゲームを行ったことがあった。子供らは楽しみながら懸命に押していたが、先生は倒されなかった。そのあと、私が同じように俯せになり、子供達が起こそうと懸命に押す。これは経験してみて分かるが、低学年の小学生といっても人数が揃うと大きな圧力になる。私も起こされまいとしてみたが、仰向けにされた。二度目は脱力状態(なら起こされないと思い)を意識してみたところ、効果はあったが結局倒された。倒されまいとして力むと逆効果となってしまい、脱力状態にすると効果があることだ。
そんなことを思い出し、脱力状態なってみると参加者同士では効果はあった。簡単には押されないのだが、やはり身体が起き上がり倒される。ただ、脱力したと思っていても押されまいとの意識が残って、その意識が力みになり体の堅さになってしまう。完全な脱力状態なれば効果はあると思えるが、 100%に近い脱力状態(例えば睡眠状態)になるのは簡単ではない。
先生が押されても、二人掛かりでも倒れないのはなぜか。この場合、肩に乗せている相手の手を掴むことが必要だそうで、肩に乗せた相手の手を通じて気をもらう、気を流す(だったと思う)、力を分散させてしまうと言われていた。実際に先生の肩を押して感じたのは、ぶつかりが感じられないこと。中心に当たらない、押す力を逸らされてしまうのだ。「暖簾に腕押し」という諺があるが、意味合いが違うが、押しても張り合いがないのは同じだ。浮き身になることで居着きを無くすことが目的であろうが、どうすればできるのか。気をもらう、気を流すことが必要とのことだが!
「三教」:三教の掛け方、感触をつかむ稽古として、通常は受けが仰臥し、取りは受けの側面から片手取りして頭上を一回りしながら反対側へ行き、技が掛かっていれば受けは体を起こされる、といった手順の稽古をする。私は2ヶ月ほど前からこの手順ではなく、受けが立ったままになり、取りは正面に立ち、片手取りして脇の間を抜けて背面に向かい、三教を掛けるといった手順の掛け方を教わっていて何度か試している。
三教を先生に掛けられると手首、肘、肩と極められるが、私が試みると単に手首を捻っているだけだ、と言われていた。それが今日、『初めて掛かった』と言われた。掛かったと言われても、どうなると掛かったのかが分からないし、掛かっているとの感触も分からない。とにかく、もう一度と言われて試みたが、今度は『掛かってないね』と言われる。同じ動きをしているのに、好いと言われた動きと何が違うのか? 思いつくのは、脇の間を抜けるときに気が途切れてしまったことではないか。しかし、途切れた意識はないのだ。
「大東流柔術・柏手小手返し」と「大東流合気柔術・柏手小手返し」。同じ小手返しでも、柔術と合気柔術はどう違うのかを教わる。「柔術・柏手小手返し」は掴んだ小手を、受けの正中線に向けて押さえ込み、その後で肩・肘を崩す。この押さえ込みは力でグイグイと押される。柔術は力と痛みで倒されるイメージがあるのだが、ほとんど同じように崩される。もっとも、私は力と痛みで倒しているよく言われたから、私自身が柔術・小手返しの見本だと言われそうだが。
「合気柔術・柏手小手返し」はいつも稽古している小手返しと同じ感じで、私達が教わっている小手返しとの違いは分からなかった。
「三教」:初めて三教が掛かったと言われて以来、気を通すこと重点にした稽古を行っているが、その後は掛かったとは言われない。掛かっている、と言われた時と何がどう違うのか、未だに分からない。私に関しては、気を通すなどという以前に、まず、形が悪いことを指摘される。その一つは脇が空いてしまうこと。すべての技で指摘される欠点でもある。
指摘された以外に次のようなこと言われる。『技が掛からないときは、なぜ掛からないのかを考えないと駄目だ』。初心者ではないので、掛からない理由をまず自分で考える。基本が出来ているか、それぞれの技に必要なことが出来ているか。技が掛からないのは基本的な体の使い方の、何かを使っていない、あるいは間違った使い方をしていることになる。
稽古で技が掛からなかったとき、帰りの電車や自宅に帰ってから何が悪かったのかと考えることはある。あるが、何が原因なのかを探っても、一つだけなのか、あれこれ全部なのか、稽古中ではないから確かめることができない。次の稽古日に試そうとしても、同じ技の稽古ではないとそれも出来ない。
掛からない原因を自分で見つけることは難しく、稽古している皆さんも同じように悩んでいると思うが、先生の言われている意味は『出来ない原因を自分の頭で考える』ことをせず、言われてから直すようでは進歩がなく、身につかない。一定のところで留まってしまうよ、との意味合いではないか。考えること自体が進歩に繋がるのではないか。
剣術:相青眼から、我は下段に構え、相手は上段に変化して打ち込んでくる。変化した瞬間、喉元目がけて突く、といった稽古を行う。難しいのは間合いだ。相手が上段にする前では意味がないし、遅ければ斬られる。一足一刀の間合いといっても自分の体力、気力を確認することがまず必要だ。どの程度、体が動くのか負けない気力があるのか。気持ちだけ若くても現実は厳しい。間合いは稽古で確認するしかなく、やはり剣を持った状態でないと実感できない。
「柄取り」:剣を受けた右手の使い方に進歩がなく、膝・腰は使っていない、緩みがない。先生から『どんなことを意識してやっているのか』と質問され、正中線、膝の緩み、接点からの目線、と答えたが、それに加えて『相手の肩を崩す意識だ』。もちろん柔らかくが条件となるが。
いくら必要項目を答え、意識している、と言っても実践できていなければ意味がない。意識しているようで、意識などしていないのだ。単に忘れているのか、あるいは言葉だけで必要性を認識していないのか。いや必要性は分かっているし実感している。例えば膝・腰の緩みを使うと技の掛かりが良くなるのは、「臂力」や「転換」で腰・膝を緩める 落とす)だけで効果が違うことがわかっているのだから。
剣術:三つの先「先々の先、先、後の先」を教わる。別の言葉で言えば「間合い」となる。「先々の先」は、相青眼から間を詰めて上段からの斬り込みを飛び込んで小手を斬る。この稽古で私は、相手の初動−青眼から上段に変わり始めてから小手を斬りに行っていた。この動きを見て先生が私の後ろに立ち、相青眼から間を詰めてくる相手に『今だ!』と背中をポンと押す。私は一歩踏み込み小手を斬り出たが、その踏み込みの間合いは私の感覚とまるで違っていた。なぜかと言えば、青眼から上段への移行が私には見えなかった。青眼から変化した動きを感じられなかった。気配を感じないとできないことだ。
間合いとは「何かするのにちょうどいいタイミング」。早くもなく、遅くもない一瞬の間、一瞬の隙を突かなくてはいけない。剣道を習ったことがないので正確な言葉は分からないが、間合いを計る? あるいは気配を察するとなるのか。私にはまるで掴めなかった間合いだった。「先」は、上段の斬り込みに剣を立て斬り落とす。普段稽古している「斬り落し」。「後の先」は、斬り込んでくる剣を交わし、相手の剣を肩に乗せた剣で受けて斬り返す「受け流し」。
居合:型の動きの中で疑問点を教わる。座り技「介錯」(右足一歩踏みだし居合腰から鞘を掴んだまま柄頭を床近くに下げる)。柄頭を床近くになぜ下げるのかが疑問だったが、その訳は相手(介錯される者)に対しての「礼」であるとのこと。半立ち技「大龍」(立ち上がりながら柄を真後ろにする)。後ろへ引くのは、相手が柄を掴みにきたのを避けるためとのこと。無限神刀流居合術には半立ち技(一文字腰で腰を下ろした状態)が11本あるが、他の流派では演武会でもほとんど半立ち技を観ることがないそうで当流の特徴らしい。
合気道の稽古では、「気を通す」がテーマ。先生が片手を前に伸ばす。私は両手で掴み引かれないように押さえるが、軽く引き寄せられてしまう。引き寄せる、と表現したが力で引っ張られる感じではない。柔らかく引き込まれる(これも違うかな)。とにかく掴んでいる両手がスッーと持って行かれるのだ。正面だけでなく横方向も同じ結果だった。
私が試してみる。同じように正面に伸ばした手を先生が両手で掴む。手前に引いてみる。が、びくともしない。あるいは「片手両手取り」のように肘を入れようとしたが動かせない。片手両手取りは腕を下ろしているから肘を曲げることができるが、腕を水平に伸ばした状態ではそれもできない。むしろ、引いている私が反動で掴んでいる先生の方へ体が動いてしまう(普通はこうなると思う)。
何度試みても動かすことができない。根を上げる。ではどうするのか? 『胸を緩め、気を頭から通して胸で止め、瞬間腕を動かす』と言われる。胸を緩める、とはどういうことか? 胸を張らない=胸筋に力を入れないだけでは緩みとは言えない。では胸を凹ませる? ふっと息を抜く? とにかく、腕力で引っ張ることを止め、教わったような意識を持って何度か試みたところ、先生の体(腕)を引き寄せることができた(言うまでもなく先生は、感触を掴ませるために私の程度に合わせている)。それでも、この引き寄せる感触は、例えば綱引き競技で綱を引っ張るのとはまるで違う。ズズッーと重いものを引くような抵抗を感じないのだ。それに、引っ張る=腕力ではとても動かすことはできない。緩める・気を通すことが『合気上げ、二教、柄取りなどすべての技に共通する』とのこと。
稽古の中心は「上げ手」。上腕部の筋力で上げるのではない、とは入門して直ぐに教わること。腕力ではないことを身に付けるのは第一段階なので、道場へ行ったらなるべく(初心者は短時間でもぜひ)試みることが必要だと思う(時間が掛かっても上げ手は合気道の基本だから)。次の段階で、気を通す、緩めることを習得できるように稽古をするが、緩めて上げることが出来るとぶつかりが無く(少なく)腕が上がる。私はこの「上げ手」が面白と感じているので、上達を目指して努力しているところ。
稽古中に伺ったことだが、初心者でも諸条件が揃うと上げ手が出来るのか? と言うこと。つまり、気力とか呼吸力を養わずに。先生は『初心者でも出来る』とのことであった。となると、出来ないのは余分な心、力みが問題で、無心であれば出来るとの意なのか? 偶然ではなく連続して意識的に出来るようになるには、やはり長年培ってきた気力・呼吸力が当然必要になると思うのだが。
この「上げ手」では、掴まれている手首の親指と相手の親指との密着が重要になる。親指が密着していると、体が浮き上がって爪先立ちになる。私はこの親指の密着が上げる途中に離れてしまうことが多い。無理して密着させようとすると肘が開くなど、型が崩れてしまう。単に上げるだけでは相手をコントロール出来ないことになり、技としては中途半端。ここから一歩抜け出さないと次の段階に進めないことになる。
同じ意味合いで、片手で木刀を掴んでいるのを、受けが手首を握って押さえる稽古も行われた。木刀に気をとられると手首に力が入ってしまう。振り解こうと左右に振っても外せない。上げ手の崩しで外す(解く)が、木刀を持つことで意識が変わってしまう。状況の変化に惑わされないことを学ぶ稽古でもある。
Tさんと「二教」の稽古。先生と私の掛け方(掛かり方)の違いについて、『先生は技に途切れが無いが(技が繋がっている)、Sさんは途切れがある』がTさんの感想だった。『途切れてしまうから、速さや力で補ってしまう』と先生。途切れるに関しては以前にもかなり注意されていることだ。
なぜ途切れるのか? 考えられるのは、漠然としているが気の通しが切れるからだと思っている。昨年、集中的に二教を教わっていた時期、片手取りから掴み返して掛けるときに『途切れている』とよく言われたことを思い出した。ただ、途切れている、との感触は自分では分からない。言われて初めて気が付くことで、言葉で指摘されるのはありがたいこと。改めて気の途切れがないように心掛けたところ、『途切れが無くなった』とTさん。
途切れがないことを心掛けたが、特別変わったことをした訳ではない。途切れない気の通し、と表現するしかない。初心者の人に二教の技の掛け方を言葉であれこれと説明をすることもあるが、言葉だけでは理解できないし、技が掛かる訳ではない。組稽古で技を掛けられことで、掛けられる感触を掴むことが必要だと思っている。(二教は感触を掴めば掛かる、と言っている訳ではありません)。
「下げ手」。指先を上に小手を立て、受けに掴ませての下げ手。入門して2〜3年はよく稽古したが、最近は受けが小手を十字交差した型からの崩しをしているので久し振りだ。この技は受けの両肩を斬ると言われている。稽古では相手を前傾斜させる程度にはできるが、ぶつかりが残ってしまった。先生が変わって相手の人に稽古を付ける。その先生の手の動きを見ていて解ったが、私の下げ手は手前に引いた動きになっていて入り身がなかった。気がついてやり直す。
剣術:「斬り込み」。剣を受けたときに、胸を緩めて入り身をするができた。ぶつかりがなく崩せる。剣術を初めて2年半、やっと体感できた。一瞬緩めることがなぜできなかったのか、と思うほどシンプルなことだった。居合の「横雲」でも、抜刀した剣を正中線に戻す右腕の動きを(剣をスムーズに中心に動かすのに違和感があった)、胸を一瞬緩めながら正中線に戻した。先生から『それなら止められない腕の動き』と言われたばかりだった。胸を緩め右腕を動かすとなめらかな動きになることを自分で実感する。
柔術「引き落とし」と「抱え込み」を教わる。「引き落とし」は袖を掴まれた時の対応で、手順は省くが受けの手首を押さえ肩を抜くように撞木足になる。撞木足と半身の一致が必要としている。「抱え込み」は掴まれた小手を抱え込み、胸の間に受けの手首を挟み(手順略)一文字腰から崩す。一文字腰と正中線の一致が必要となる。二本とも掛けられると手首が折れそうな痛さになる。特に「抱え込み」は激しい痛みがあるし、掛け方が難しい。
片手取りした受けの上腕部・肘などを掴む、あるいは手刀を当てた崩し技を行ったあと、小手に関連した柔術技。先生が左手で私の右手首を掴み、小手の中間部に右手の拳でガンガン打ちつけた。痛い痛い、その痛さは並ではない。とにかく痛い。その痛さで膝から崩れる。長尾全祐先生から教わったそうだ。先生も始めはその意味が分からなかったそうだが、肩を抜く技として理解するようになったとのこと。
相手から小手を掴まれた時に打ち込んでも良いわけで、なまじっかの護身術よりもシンプルで誰でもできそうだ。ただ、稽古ではやらない方が好いのではと思う。技を掛けられているとは思えない、単に打撃を受けたと感じるので、痛さにムッとなる。
「三教」。受けが仰向けになり、取りが横に立って片手を掴み、三教の掴み手を覚える稽古。先生が取りになり、私の手を掴んで動き始め、頭の横で『ここで気を感じないか』と言われた。つまり、二教と同じで気を感じ無ければいけない(感じるはずだ)と言うことだ。以前に何度かぼんやりとした気を感じたときがあったが、このときは二教を掛けられる時のような気は感じなかった。仰向けになることは普段の稽古ではないので、集中力の欠如もあるのではないか。この稽古では受けの肩への意識、腕の角度、柔らかさについて教わった。
剣術:「柄取り」は掛かると自信を持って挑んだが、以前は掛かっていた人から「前は掛かっていたのにどうしたのか」と言われてしまう。元の木阿弥だ。何が抜けていたのか。あれか、これかと考えてみたが。
「柄取り」に関して『軸が後ろになっている人は掛からない』と先生。打ち込みの剣は斬るためだから、相手を斬ろうとして力を入れている。その剣に掛かる圧力を外すことで技が成立するのであって、ただ剣を当てているだけ、掛かるのをいやがって反っている人には技が掛からない(柄取りが掛からなかったのは、後ろ軸が原因かは不明。力む、緩みがない、その他か)
剣術の限らず、軸が後ろの人にはどう対応するのか? 初心者でも始めからやや反り気味の人がいるし、技に掛かりたくないので反り返る(意識・無意識含めて)こともある。人それぞれ違いがあるので、相手に応じた対応も必要となる(ことに気付いた)。
「柄取り」だけでなく、剣術の十字交差からの下げ手の稽古でも軸が後ろの人には掛からない。ではどのように対応すればいいのか。思い付いていたのは正中線の軸の移動だ。崩しの基本は同じだから後は中心軸の移動しかない。とすれば左右ではなく上下。軸が後ろとは中心軸が下がるのから通常よりも狙いを下にずらす。これが考えたこと。
自主稽古の時間、Sさんに木刀を水平にし、胸の前にやや反り気味に構えてもらう。まず、普段の稽古と同じで試みる。『効果がない』と言われる。そこで狙いを下げて試みる。こんどは『利いている』と言われる。何度か繰り返してみたが効果はあるようだ。同じように「柄取り」も試みたがやはり下げた方が効果ある。まだ一人だけだから何とも言えないが、掛からなかった人に試してみたい。
軸の位置を変えることが正解なのか、不正解なのかは分からないが、こうも考えられる。@そもそも始めから私の狙う位置が間違っていたのかもしれない。A「合気上げ」では思っている位置よりもずれていることをよく指摘される。狙いは肩の付け根に向けるが、実際は上方になることが多い。合気上げの稽古をしたことがある人はほとんど互いに指摘することだ。目線の違い、錯覚なのか。
寝床について眠れないとき、居合の技の名前を思い浮かべたりすることがある。座り技から始め、半立ち技になると、二つ三つ抜け落ちる。立ち技はもっと酷く、16本の半分ほどしか名称がでない。
剣術:青眼の構えの先生に私が木刀を水平にして当て、正中線に向けて入り身をする。効果があると受けは体に圧力が掛かって後退する。今までに何度も稽古をしている。先生と剣を合わせて直ぐに、『十分に掛かっているから長くやる必要はない』。稀にこんなこともある。
「四教・返しの掴み手」(片手取りした受けの小手を四教で掴み、血振りをするように反対側へ振る。技が効いていると相手の肩が落ちる。腰も崩れる)。掴み手を覚えるための稽古だが、掴みがずれていると効果がない。改めて掴み手を教わるが、先生の掴みは親指で手首内側の突起した部分を手前側に押し込む感じ。三教・四教の掴み手はまだまだだ。稽古でも、@掴みが悪くA△が作れていないB受けの肩に入っていない。
「三教」。片手取りから脇を通って背中に回り、技の掛かりを試す稽古。先生が取りになり私が受け。先生が脇を抜け背後に回ったとき、いつもと違い肩への感触が感じられなかった。技が掛かっていないと思ったので、『これは掛かっていないと思います』と先生に言う。先生は『分かるようになったね』と応えた。やっと三教の掛かりの感触が分かってきたようだ。
居合で「円を描く」(この字が正しいかは確認していない)との言葉を教わる。たとえば「小袖落し」。抜き打ちで一太刀目のあと、二太刀目の袈裟斬りは、単に斬り下げただけでは人を斬ることはできないので、袈裟に斬りながら柄頭を手前(鳩尾)向けてくるっと円を描くように剣を使うと教えられる。無限神刀流居合術の特徴であるとのこと。居合の型に同じような動きが幾つかある。居合であると同時、斬法であるから、らしい。
居合全般に指摘されたのは、歩み出すときから気を入れること。だらっと歩かない。また納刀が終わり、剣から手を離すまで気を抜かない。血振りで終わったとは思わない。私はよく注意された。
宿題になっていた十字交差からの下げ手(軸が後ろの人)を試みる。結果はやはり下げると効果があることだった。あとは私自身の感覚違いがあるか、となる。
剣術:組居合の稽古。皆さん楽しんで稽古をしていたようだ。技が掛からず、落ち込むこともある剣術と違って、居合の型を組み合わせた稽古であっても、お互いの動きが小説や時代劇映画の一瞬(例えば「椿三十朗・黒沢明監督」映画史に残る決闘場面。未見でしたらDVD等で)を演じているような楽しさもある。しかし、先生から『Sさん、弐段だからもっと違いがでないと…』と。実は稽古開始前に居合の弐段免状を受理していた。居合は現在立ち技の稽古中で、半立技はすでに課程 (手順)は修了しているが、型への肉付け中との段階で、秋になったら昇段をと言われていたのが、早めの差許し(無限神刀流の賞状ではこの表現になっている。楽心館では“允可”と表現されている)となった。ただ、言われたように、他の人と違いがないと免状が泣いてしまう。(石川先生の無限神刀流居合術半立ち技の稽古風景の動画が、公開されている)
※居合の組稽古。知らない方が多いと思うので簡単に記します。
Aは「横雲」の型。手順は@抜刀・水平斬りA剣を正中線に立てるB中上段から斬り下げる。
Bは「抜き打ち」の型。手順は@抜刀・上段A斬り下げる。
AとBは正座で向かい合い、同時に抜刀する。
Aの@抜刀・水平斬りに比べ、Bは@抜刀・上段に挙げA斬り下げるとなり、上段に剣を挙げるBに時間差があるので、Aの剣が早く、勝ちますが、無限神刀流の要点は、BのAの時にAがAになることです。正中線に剣を立てることで Bの大上段正面斬りを受け、その後にBで斬るとなります。型の組み合わせで色々な組居合ができます。興味のある方は始めてみませんか。
剣術、合気道を一緒に稽古している鹿島さんのブログ(50を過ぎて剣術入門)を読んだら、稽古内容が細かく記してあり、私がまったく忘れていたことがかなりあった。今更ながら記憶力の減退を実感する。これからも、詳細に記してもらえるとありがたいのだが。
「後ろ手首取り(両手を背面から掴まれた状態から外す技)」に関して先生に質問。「後ろの相手に対しても気を通す、あるいは通すことができるのですか」。なぜこの質問をしたのかと言えば、目で確認できない後方の相手に気を通す必要性と、正中線の確認をどうするのか、と思ったのだ。
先生は『掴まれた手首を通して気を通すことができる』。やはりそうかと思った。しかし、見えない相手に向かってどのようにして中心軸を捉えるのか。時間が無くて再質問はしていないが、正面向きほどの精確な捉え方ができなくても充分な効果が得られる、とのことだろうか。この辺りになると私の程度では理解できないが、後ろ向きでも気を通していることが分かっただけでも充分であった。
剣術「斬り落し」:相青眼からの斬り込みに剣を正中線に立て、相手の剣を斬り落とす。このとき剣の左面で受けるのを表受け、右面で受けるのを裏受け、と教わる。受けてみると裏受けは感覚的に合わない、それと恐怖心で(右利きのためだと思うが)剣を斜めにして受けてしまう。型も悪い。受けだけでなく斬り落とすとなると…できない。剣が相手に当たるのでは、との懸念もある。
剣術において接点(剣と剣が重なる点)が動いてしまうことは、剣術稽古に参加している我々共通の問題だ。今日も接点が動いて技が掛からず、稽古相手の人となぜ接点が動くのかとの話になった。@接点を動かさないようにすると、目が一瞬でも接点に移ってしまい、気が軸から離れてしまう。A動かさないことを意識すると両腕に力みがでたりする。B捻る、押している。と、いったことが話の中で出てきた。
どうすれば好いのか。先生は『まず、形、姿勢が大事。見ていればその人の技が掛かるかどうか分かる』。形、姿勢が大事との考えが無かった私は、気をいかに通すのが一番ではないか、いかに気が養われていることではないか。形をまねると、初級者でも技が掛かるのだろうか、といったことを質問してみる。
『気という言葉を便利に使っている面があって、中心のズレ、肩・腰の力み、捻りを無くす。精確に真似ることができれば技は掛かるが、簡単には真似られない』といった説明を先生から受けた。形だけまねても力む、捻る、踏ん張るがあると技は掛からない。ただ、「気を通す力」が先生と私達では大きな差があり、その大きな差が(どの程度技に影響を与えるか不明だが)技に影響を与えるのではないか。との考えが先生の説明を聞いても現状ではまだ残っている。
剣術:帯刀した剣の柄に手を掛ける。相手が両手で剣を抜かさないように手首を掴む。この状態から「横雲」の柄返しの技を使い、一文字腰になり剣を抜く。先ほどYou Tubeにあった石川先生の演武と、文書を読んで書いている。横雲の柄返しで崩すことは前回に教わった。単に柄を平にするだけでは駄目で、腰(腹)から返すことと、股関節と膝のゆるみの一致が必要になる。「抜き付け」という名前になっている。
転換:片手取りから袈裟斬りでの崩しを教わる。
受けが仰向けの状態から三教の掴み手。技が掛かっていると、受けはあまり痛みを感じずに体を起こされる(痛みを感じない方向へ体が起こされるとの表現が近い)。ギュウギュウ捻って、痛みだけで相手を起こすのは誰でもできるが、痛みを感じさせない崩し技を教わるのも、楽心館合気道の優れているところだ。ポイントは掴んでいる受けの肩への通しと、手を後に引っ張らないこと。手を引くと技が解けてしまう。三教の掛かりが分かるようになってきたのが大きい。
剣術「受け流し」:上段からの打ち込みを、上体を斜めにして剣を肩に添えて受け、相手の剣を流す。同門者から間合いはどの程度と聞かれたが、自分で計るしかないと思う。稽古では打ち込んでくる剣を避けるために早めに体(頭)を動かしてしまうことが多いが、それでは避けた方へ斬り込まれてしまうので、“後の先”としての受け流しの意味がない。相手が近づいてくる。青眼から上段に変わるがまだ動かない。ぎりぎりまで動かない。恐怖心が膨らむ。斬り込んでくる。体を斜めにし、剣を肩に当てて受け流し、その剣を打ち落とし首筋を斬る。と、なれば理想だが。打ち込まれる前に体を避けていないか、お互いに指摘しあうことが必要だ。かなり稽古をしないと間合いを計るのはできない。
剣術稽古は「払い」−斬り込んできた剣を、脇構えから剣の峰で斬り落とす。構えが青眼や八双と違うだけの「斬り落し」。今日は稽古相手から指摘をされた。Aさん:斬り落とすときに「正中線への気が抜けている」。斬り落とすとき、視線(気)が受けた剣の接点へ移っていたようで、一瞬でも相手から目を離してはだめだ。以前より減っているが、剣術では接点を見る、追ってしまうことがある。Bさん:「剣の接触のあと、肘を伸ばしていない」。肘を曲げたままでは技が掛からない。要は、両肩の範囲内で肘を伸ばすこと。
指摘されたことは頭の中に入っていても、現実の稽古ではその日によって何かがすっぽり抜け落ちてしまう。身に付いていないからだ。稽古中に何が良く無かったのか、気が付けば互いに指摘することで直ぐに訂正できることもある。あるいは、技の効果があるときは、効いている、掛かっていると言うことも大事なこと。
先日、「手解き」の稽古を行ったとき、先生から左手の使い方が好いと言われた。その時は膝・腰の緩み、脱力も自然に出来ていたようだ。その余韻が残っていた訳ではないと思うが、今日の稽古で体の大きいTさん、体格のいいMさんと「上げ手」を行った。私が取りになったとき、二人からは「これは押さえられない」と言われた。この時は考える間もなく、力みもなく自然と出来た。“自然と”とは、掴まれた小手を上げようとか、技を掛けようとの気は無く、ただ無心に上げただけ。結果として間を空けなかったことにもなる。
技を掛けるとき“間を空けない”とは先生から最近よく言われることで、2週間ほど前にも、『間を空けている』と叱責されている。間を空けると流れに切れ目ができ、力み・堅さがでて技の効果が無くなる、とのことだと思うが、集中力を切ってしまうことにもなる。膝の使い方、等加速度なども決まっていたようだ。私にしては珍しく、上出来の崩しだったようだ。
なぜ剣術の技が掛からないのか。その具体的な理由を「斬り返し」で教わる。
@『柄の掴みが悪い、堅い』−柄を柔らかく掴むのは分かっていたつもりだった。しかし、指摘された右手の掴みは、私が思っていた掴みのさらに半分ほどの柔らかな握りだ。逆手に持てば落ちてしまうほどだが、『それで好い』と先生。
A『物打ちに体を入れる』−剣の接点(交点)を押さず引かずに剣を立て、斬り込む時に物打ち(剣先7分所)に体を入れる。正中線、肩への崩し、物打ちに入る。この三つを同時に働かせる。
B『接点の維持』−斬り込んできた剣を受け、剣を立てる時に接点を下げない、引かない。接点が下がる、引くことは何度も指摘されているのだが、下げている、引いていることに気がつかない、感覚が無かった。
接点は動かさないが基本。上下・左右・前後、とにかく動かしては駄目なことは当然だが、『下げている』(自分の剣が接点からp単位で下がる)のは、剣を立てるときに腕を下げてしまう。訂正するには、接点を軸にして剣を回すことを心掛ける。『引いている』(剣と剣の接点は動かないが、接点ごと後方へ引く)のは、剣を立てるときに弛んで剣先を下げてしまうから。この訂正は、ほとんど気の緩みが大きいのではないか。何れにしても、「下げる、引く」は木刀を通しての(接点を通して)感触の捉えかたが足りない、大雑把で甘いことになる。
教わった中で、柄の緩みについて質問した。「柄を緩く持っていると、相手の剣を受けたとき支えられないのでは?」。先生は『剣を腕で受けるのではない、足・腰で受ける。足の踵で受ける』。私は100%手だけで受けていた。
最近の稽古で「繋がる感覚」とよく言われる。先生は『いま繋がった!』などと言 われるが、何がどう繋がったのか、その感覚がまったく分からない、感じられない。例えば「小手返し」では掴んでいる受けの小手を通して繋がりを感じるのだ、とのこ と。二教で感じる「気」や、三教での「体に感じる感触」と別の感覚があるのか、あるいは稽古の積み重ねで、繋がる感覚を掴めるのか。
小野派一刀流・青眼の構えを改めて教わる。柄尻を臍の位置、剣は水平に近く、両手は肘をゆるめて張りを無くし、特に右手は肘を前方に出す(通常の青眼と比べると肘一つ分ほど前にする)。これが小野派一刀流青眼の構え。次に打ち込まれた剣に対する受けの体勢・姿勢。これはまるで違っていた。
「剣に体を入れる」と教わるが、言葉よりもまず見比べてみよう言われ、鏡の前に立つ。真横から見る先生の構えは『剣術は体術での構えよりは頭一つほど前傾になる』ので、左足踵から腰、胸、頭、が斜めに一直線に伸び、その先(上)に剣がある。一本の直線の中に剣から踵まで入っている。比べて見る鏡に映った私の構えは、腰を境に上体が折れ、左足は膝下が立っている。剣は頭の上ではなく額の前に置いている。これでは頭が出ているので斬られてしまう。直線とは言えない折れ線だ。
改めてみると確かに先生の構えは言葉通り「剣に入っている」。打ち込まれた剣をしっかりと受けられる構えだ。正面から見ていると気が付きにくいこともあるが、それでも長い間先生の構えを見ていたが、まるで気が付かなかった。いや、ただ見ていただけで、観ていなかった。まるで観察眼がない。上達出来ないのは当然、と言っていい。
稽古終了後の稽古仲間との雑談のなかで、合気道は中・高年者には最適の武道ではないか、との話になった。体力的に落ち始めてきた、あるいは落ちてしまった中・高年者も、その体力に合った程度から取り組めば充分に対応できる。強い腕力、スピードなども特に必要としない。投げ技など覚えなくても充分に武道としての合気道を楽しめるし、実力も付く。
腕力がある人と稽古していて感じることは、当人は力を弱めにしているつもりでも(半分程度だとしても)、とても弱くしているとは思えない強さを感じてしまう。私自身、腕力で崩そう、倒そうとして先生から『力技だ。もっと力を抜け』と長い間注意を受けてきたし、今でもその傾向がでる。
力技と言われてきた私でも、稽古を続けてきた間で実感するのは、合気道に腕力は必要としない、腕力を付けるためのトレーニングは必要ない、と以前では思いもしなかったことだ。腕力がある人は、技を使う前に力で相手を崩してしまう。力で崩す、倒すのは人間の本能みたいな面があるので、技(腕力ではないことを)を実感するのに時間が掛かるのではないだろうか。
以下はまだ武道(合気道・剣術・居合など)を始めてみたいと考えているが、ためらいを感じている方に。武道を体験したい、習ってみたいと思っても、会場がカルチャーセンターだと軽い気持ちで入門出来るとしても、武道場でとなると、厳格な指導者、冗談も言えない厳しい雰囲気をイメージして気後れし、決心がつかない人もあるようだ。が、実際には道場内で笑いもある。見学などして雰囲気を感じる、あるいは体験するのが一番だと思う。
剣術:「受け流し」。先月であったか、右手は柔らかく、柄を逆に掴んだら落ちる程度に掴むと言われたが、今日も同じ指摘を受ける。まず、右手の握りを柔らかくして柄を掴む。剣を立てるときに接点が動くのは『右手の握りがガチガチだから右手で押してしまう』。とにかく『柔らかく、剣がぶれない、触る程度』。これに関連して『右手は身勝手』と言う言葉を教わる。本人の体でコントロールできないほど右手は勝手に動いてしまう、とのことかと思う。よほどの意志の強さ、決意が必要であろう。
Cさんには「転換」が掛からない。今日も崩しが出来なかったが、気が付いたことがあった。私の手首を掴むとき、互いの肩の線を結んだ外側で掴まれているのだ。上げ手などでは掴まれた小手が肩の線より外では掛からない。Cさんは腕力も強いが、互いの肩の線上外あることが掛からない大きな理由ではないかと思い付いた(私自身の技の未熟さがあっても)。線上から外れた掴みを崩す技法はないのだろうか。線上に戻すために小手を動かす、あるいは体を移動するのは意味がない。
剣術:△(三角)を作る稽古。仕太刀が小太刀で構え、打太刀が八双から袈裟斬りに来るのを半身になり、剣を顔前に立てて受ける。△この三角で言えば右の角度が仕太刀で左の角度が剣の位置になる。私の悪い点は、『袈裟切りに、剣を斜めにして受けている。曲尺のように剣を直角に立てる』こと。斜めにする×形ではだめで、大工が使う曲尺(直角に曲がった金属製の物差し)と同じで直角に剣を立て、受けた剣の接点から相手の体中線に入り身する。
稽古中に先生から各自に質問は? と聞かれ私は「自分で思っている剣の接点から相手の体中線(と思っている位置)がかなりずれているが、どうすればよいのか」と質問。『体の位置から見るのではなく、道場の壁や天井といった遠くから接点を通し、光線を当てるようにすると角度のズレが無くなる。これを離見の見(りけんのけん)という。』と教わる。遠くからの視線は別の意味で言えば、状況を冷静に判断する、自分を客観視することにもなる。現状では稽古中にそんな余裕はないが。
寝付かれないので合気道のことを考えていた。その中で、先週の「転換」が掛からない原因の一つが掴まれた小手の位置ではないかと推測し、崩しの技法がないだろうかと日誌にも書いた。ではどうすれば好いのか。剣術で行った前回の三角を作る稽古を思い出した。八双からの剣を小太刀で受け、その接点から気を通す(飛ばすと言えばよいのか)。体中線に向かって剣を入れて崩す。接点が肩の線から外れた位置でも崩せる。ならば「転換」も同じではないだろうか。頭の中での勝手な思い込みで、これなら崩せるのでは、何れ試みて見ようと思案している内に寝付いた。
立ち腰からの「三教の掴み」。掛かる感触、掛けられる感触が分かるようになった。と言っても掛け方が分かったわけではない。あとは掴みの精度を磨くこと、左右の掴みのばらつき訂正が必要。三教の稽古は、受けが仰向けになった姿勢からと、立ち腰からの掛かりを行っているが、やはり、始めは仰向け状態からが掴みの感覚がわかりやすい(稽古でも仰向け状態から教わる)。受けが寝ているから、前後のぶれがないし、受けも体を動かさないので集中力が高まり、掛かる感触が分かりやすくなる。
剣術が上達しない、出来ない大きな理由は“受けが拙い”ことだ。先月の、小野派一刀流の構えでも記しているが、打ち込まれた剣を受けたときの私の姿勢・構えだ。この受けの拙さが当面の最大の課題で、何とか訂正したい。先生からは『負けた受けを取らないこと』。で、負けた受けとは『固まった、変化に応じられない体』である。負けた姿勢・構えに関しては鏡などを見て直す努力はしているが、受けた剣を反発せず、押されもしない「固まらず変化に応じられる体」は簡単ではない。
剣の受けに関しては、相手の剣を跳ね返してしまうことが多い。いや、ほとんどそうだ。私の受けは跳ね返そうとする気が見え見えで、構えを見ただけでも先生には分かるそうだ。ではどうするか。『何のこだわりもなく、ただ受ける』、それだけだと言われる。今日の稽古で、『その受けなら好い、自分でそう思ったのではないか』と言われたことがあった。好い受けであったと思う。力みもなく跳ね返しもしないで受けが出来た。10回ほどの中の1回だけではあったが出来たのだ。二度三度と出来る回数を増やせると思いたい。
長身者に対しても技の掛け方は同じなのか? と言ったテーマ。身長の高い人に、どうやって小手返しを掛けるのかとの質問があり、それに乗って私が2mクラスの大きな人に技の掛け方は同じであるかと質問。先生が実践をしながら説明される。受けが立ったまま小手を出し、座った先生が掴む。そのままの姿勢で小手返しをすると、通常と同じように受けが倒される。まったく同じだ。次は二教。やはり座ったままで立っている人を崩す。『身長差があっても無くても接点を通して崩すのは同じ』となる。すべて接点を通して相手の正中線に気を通すことになる。
「片手取り両手持ち・臂力」:最近はあまり稽古でも行っていなかった。私は手足の一致だけで崩そうとしていると言われる。『崩そうとしたとき、思ったときは終わっている(崩している)ことが必要』と先生。技を掛けようとしてから掛けるのではなく、思ったときにはすでに相手を崩している。一で動く。初動を消すことになる。これを「一挙手(いっきょしゅ)」と言うそうだ。
「気を通す」に関し、こんなことをふっと思った。取りが技を掛けるときに、受けが取りに対して気を通したらどうなるのか、だ。例えば「二教」や「小手返し」。掴んだ小手から逆に気を飛ばす。どうだろう。取りは技の掛かりが悪くなる、掛けられなくなる、そんなことはあり得ないか。一定の効果はないだろうか。まったく影響しないか。
今年最後の稽古日。剣術は基本技の中で「斬り返し」−打ち込まれた剣を一度受け、斬り返して落とす。今日はこの技が良く掛かった。しかも、複数の人に効いた。稽古前に先生から、剣に入るときに肘を伸ばすことを注意され、その訂正をしていたことも大きい。また、相手の欠点に気が付くようになった。稽古納めの日に、良い結果がでて良かった。
一年の締め括りなので、合気道と剣術の来年に向けた課題、注意点を記してみる。
《合気道》「上げ手」−ゆるみと肩への意識−肩への崩しが足りない。「四教」−掴みのポイントがまだ明確でない。握ってしまう−四教と三教は教わり始めて1年経つが、三教と比べるとまったく進歩がない。「小手返し」−右手が強すぎる。コンパクトに動く−右手身勝手の自覚が(右手の強さ)必要。3週間ほど前の小手返しの稽古で、相手の人から「これから技を掛ける、との動きがでる」と言われたことがある。軸を固定した小さな動きを身に付けること。(ここで言う四教とは、世間で行われているいためて押さえつけるような技のことではない。「浮かしの崩し」が入っている合気技のこと。)
《剣術》個別ではたくさんあり過ぎるので、大きな課題だけ。
@まずは、恐怖感。剣道を何年も稽古した人に聞いたことだが、やはり恐怖感はあるそうだ。防具を付けないことが一番の理由のようだが、防具を付けた剣道でも恐怖感はあるとのこと。この恐怖感も二つあり、一つは剣(木刀)が相手の当たる(怪我をさせる)のではないか。二つ目は自分が斬られる(怪我をする)怖さで、頭への打撃が大きい。『剣を正中線に立てれば怖さは無くなる』と先生から言われているが、剣を立ててもやはり怖い。参加者は怪我をさせないように、木刀はほどほどの力で振っている。が、それでも体が怖さに反応してしまう。やはり練習の積み重ねしかないような気がする。
A受けた姿勢・構えの直し。剣術稽古を始めたのは、07年の1月なのでまる3年間続けていることになる。稽古日誌を読み返し見ると08年7月には『受けが拙い。負けた受けではなく、勝った受けを!』と先生から指摘されていた。受けに関しては、そのあと1年半も稽古して進歩が無いことになる。
基本の受けが出来ない、他の基本的な技の進歩もない。このまま続けても……、無理かな、しばらく剣術の稽古を休んでみるか。と、考えたこともある。しかし、休んだから良くなる訳ではない。
いずれ改善できるのでは、と言った希望的な観測と、姿勢・構え以外での稽古では、多少の進歩を感じることもある(例えば今日の斬り返しなど)。欠点だけを見ていると落ち込むが、零から始めた剣術もじっくり探せば3%とか5%は進歩している面もあるのだと思いたい。気持ちの転換と希望的な観測で来年も休まず続けて行きたい。ちょっと愚痴っぽくなったが、簡単に言えば、このままでは悔しいからだ。