最終更新日 2009年12月15日
文京での初稽古。初めに石川先生から参加者全員に今年の目標を聞かれ、私は「健康で一年を過ごし、来年も上達したと思うようになりたい」。健康でなければ稽古もできないし、稽古をしなければ上達もなしで当然なことだが、昨年の12月で私も“高齢者”になった。最近は電車に乗っても腰掛けたくなるし、風邪を引いても治りが悪く、体力の低下を感じるようになってきた。しかし、“高齢者”と言う言葉はまるで実感が伴わない。同世代の人たちも思いは同じだろう。もう数年すれば実感するようになるかもしれないが、あまり年齢のことは気にならなくなり(もちろん愚痴っぽいことはでるが)、とくに稽古中は年齢のことはもちろん、嫌なこと(有れば)など忘れて楽しめるので精神的にも非常に好い。
稽古は「手解き」から始まり、「手解き外」から変化した「小手返し」の稽古。この技は捻って手首の痛みで倒しては意味が無い。自分が受けのときは、相手に肩の抜き方の方向が違う、などと思うのだが、自分が取りとなると、小手を肩先に向けいろいろ試してみるのだがダメ。ぐるぐるまわしているだけで、力みもでてくる。これが先生との稽古では掛け方が分かる、というか方向が合っていれば倒れてもらえる。『受けが上手い人と稽古をすると上達する』と先生が普段から言われているが、この小手返しはそれが実感できる。とにかくもっと稽古で体験しないと技を掴めそうにない。
合気道の稽古終了後、5時から剣術−会津伝小野派一刀流の稽古が始まる。剣術自体は合気道の稽古のなかで一定時間参加者全員が教わっているが、今年から剣術だけの稽古時間を設けるとのことで、今日は私一人だけの参加。稽古は竹刀ではなく木刀を使用し防具もつけない。まず、剣の構えから。上段、正眼、下段、八双、脇構え(相手に対して柄や剣が見えないように反対側へ木刀を構える)から始まり、木刀の掴み方、また、相手の打ち込に対する捌き方、受け方など、暖房設備の無い道場で汗をかきながら剣術稽古だった。
中野の初日は他の参加者が来ないので先生と二人だけ。個人教授と同じでこれは年初めから好運だ!最初は受け身の稽古。前方受け身では、石川先生自身も右半身からだと左側へずれる時があり、右手の力が強いからこうなる、と悪い例?見せてもらった。自分で演ってみると、やはり右半身では左へずれる。この受け身も合気道を始めた頃はなかなか真っ直ぐに回転できなかったものだ。次は「転換」。先生は『相手に手を掴まれたとき、95%以上掛かるかどうかが分かる』そうで、『掴まれた手の側の足先を相手に向け、肘を使う意識は初心者向けで、肘を外から廻さない。接点を動かさい』。掴まれた小手だけではなく、そこから相手全体の感触?気?を捉えるようにすることか。稽古を積み重ねるとできるようになるのか。転換ができるか、だけしか考えていない私にとっては、「掴まれた時に分かる」は遠い世界のこと。
「臂力の養成」は何度かの稽古の中『最後の(上手くできた)この感触を忘れず、10回の内7回程できるようなれば』と言われる。しかし、上手くできたその感触はすでに飛んでしまって、また明日からの稽古の中で探ることになる。
休憩時間に先日の剣術の稽古の話になり、私が「剣術は面白いが、居合は面白いと言った感じではないです」と話したところ『いずれ居合のほうが面白くなる。他流派の居合のなかには足・腰を使わず、棒立ちで演武をするところがある。稽古を積んでいくと当流派との違いが分かるようになる』と先生。見た目だけ剣を振り回しているのは演武のための演武でしかなく、教わっている剣術(会津伝小野派一刀流)も居合(無限神刀流)も実戦的な教えの流派であり、足・腰を使った剣の動きが合気での身体の動きに繋がる。剣と居合を体得することで、合気での体の動きが理解できるようになり、合気の上達を望むなら剣術、居合を学ぶ必要があると先生は言われていた。始めたばかりの私には型を覚えることが精一杯だが、稽古を積み重ね、他の演武を見て違いが分かるようになりたいものだ。
今までの居合稽古では先生の居合刀をお借りしていたのだが、依頼していた刀を先日受け取ったので今日からは自前の刀での稽古となる。この刀は使っていた刀より長さは4〜5p長く、刀身2尺5寸で合金製。長さも違うが、とにかく重い。両手ではあまり感じないが、片手で素振りをするとその重さが実感するし、剣を水平に保つのが難しい。納刀はもちろん抜刀も簡単ではない。自宅でこの刀を使い稽古をしたら右腕の筋肉痛がずっと続いている。慣れるまで(慣れるかどうか)時間がかかりそうだ。今日は新しい型を教わったが刀の重さに気を取られがちで、体をあまり動かさないのに汗をかく。まだまだ緊張している。
私の前方受け身が『頭から受け身をしている』と注意される。どこが悪いのか分からない。先生が『Sさんはこうやっている』と見せてくれた。なるほど、なるほど確かに頭から回転している。でんぐり返しだ。先生の受け身とは違う。どうやら肩から回るらしい。基本中の基本が違っていたのだ。とうぜん直さないといけないが、2年半以上の稽古で何をやっていたのだろうか。『たくさん(訂正点が)あるので今まで注意はしなかった』と先生。がっくりするが、落ち込んでいる暇もなく「小手返し」の稽古が始まる。「正面打ちと横面打ち−小手返し」は、打ってきた受けの手刀への対応が悪い。右手・左手の受け方がまだ弱く、受けの手刀に打ち込まれてしまう。それと、打ってきた手を見てしまうのだ。あとは小手に掴んだ手の肩への返しが上方に行ってしまうのを直すこと。
「後ろ手首取り−小手返し」後ろから両手を掴まれたときの手首を外す技。石川先生の後ろに回り、両手首を掴む。『しっかり掴んだ?』。『ハ、スピードで外しているのではない。ゆっくりとした動きでもスッと外される。私が挑んでみるが、後ろ手に掴まれたまま動けない。相手が女性ならともかく、かなりの腕力の差がないと外せないと思う。どうすれば外せるのか、今のところはまったく分からない。この稽古をMさんとしていたら、先生、今度は向かい合った状態で私に片手を掴ませ、その掴んだ手を柔らかくスルリと手を外すのを見せてもらった。掴んでいる手首がほんとにスルッとした感じで外されてしまうのだ。直ぐに真似て演ってみたができるわけがない。先生『力で取ろうとすれば相手がそれに反応して抑えるので、脱力した瞬間に外す』のだそうだ。いやいや、また面白い技を見ることができた。当分はできないだろうが、いつかできるようになれるといいな、いや、できるようになりたい、と思った。
稽古日誌の読み返しをして気が付いたことがあった。それは合気の技に好みがあるようなのだ。「上げ手」を始め「二教」などの稽古に多くの時間を割いているのだ。例えば「呼吸投げ」はあまり稽古をしていなかったし、型も覚えが悪く、いや、動きがあるから覚えにくいが本当かも知れないが。これは年齢的なことも影響していると思う。合気道を始める時も60歳を過ぎた体でドッタンバッタンの投げ技はとても無理だと思ったし、間接技(のような)だったら何とかなるかなと思っていた(現実の稽古では中高齢者には派手な投げは行わない)。稽古を続けるうちに自然と好みがでてきたようだ。「片手取り両手持ち−呼吸投げ」も両手で掴まれた片手で受けの体を崩すこと重点を置いているので、その後の投げ技はあまり稽古をしていない。まあ、この辺りが私の欠点でもあるのだが。好みとか面白さを感じるのは個人的な性格の違いであろうが、他の人はやはり技の好みがあるのだろうか。
「後ろ手首取り・片手取り小手返し」は相手が経験の浅い人なら抜き取ることができる時がある。ところが高校生のM君に小手をしっかり押さえてもらうと、外すことができない。彼は3歳から合気道を始めていて、今は黒帯。ということは、抜き取りができたといっても、力で外しているか、あるいは、相手が手抜きをしているのか!先生からは抜き取る体の入り身の方向が違うと言われるのだが。
剣術−「斬り落とし」仕太刀(受け)が正眼、打太刀(取り)が八双から受けの剣を打ち落とす。私が斬り込むと『剣を横から振っている』、あるいは剣に当たらず『空振り三振、バッターアウト』と先生に言われる。自分では横、あるいは斜めから振っている意識はなく、鏡を見ながらでは横振りしていない。それが、目の前に剣があると横に払う、叩く意識が働いてしまう。この稽古では説明のために受けは剣を構えているだけで、斬りかかる動作はないから、恐怖感など感じることはないのだが。剣の怖さにたいする潜在意識があるのだろう。
道場の羽目板に刀の柄頭を付けたまま腰を後ろに引き、刀身を抜く基本稽古。先生の演武を見ていると楽に抜いているように見えたのだが、見ると演じるとでは大違い。使用している刀(刀身78p)の、あと2〜3cmが抜けないのだ。腰全部を後ろに引けば抜けないこともないが、それでは体がくの字になってへっぴり腰。刀が重いので剣先もぶらぶらする。また、正面からの抜刀は、映画などで見慣れたいかにも居合らしい抜きだが、この刀では抜いてもやはり数センチ残ってしまうので、鞘を下にしっかり押し込まないと抜けない。刀身の短い刀なら抜けるが、それでは稽古にならない。刀の重さも手に馴染まず、右腕の筋肉痛には市販のお灸をすえている。重さに慣れるか、支える筋肉が付くか、それまでは治らないだろう。
新しい型を教わるが、この型の稽古途中『はい復習してみましょう』と言われ、動こうとしたが何をどうするのか、今何をしているのかも判らなくなりボーっとしてしまった。『頭が白くなったのでしょう、俺も35歳から始めたから覚えるまでは大変だった』と先生から慰められたが、初めての経験で記憶障害が起こったようで本当にショックだった。もう、中年も終わった!
「小手返し」のなかに呼吸力の養成として”拳に気を通す”がある(テキスト−意心形心)。どのような事をするのか今日はその稽古。先生が手を掌、私が拳にして合わせ、撞木足にして構える。…と、ズンと突くような衝撃を拳に感じ後ろへ飛ばされる。両手を後に引いて突いているのではなく、腕の動きも見えない。以前に体験した「波」と同じ感じ。『一、二ではなく一で、腕で押してはだめ』とのことだが、私が試みても先生はびくとも動かず。突こうとすると腕を引いてしまい、何度やっても一で押す感覚がつかめない。門人同士の稽古では、突く−相手を動かす−ことができるが、力を使っての一、二の動きでしかなく、「気を通す」とは遥かな遠い道。
再びリクエストで「拳に気を通す」の稽古。通常、「座り技−合気上げ」の稽古では両膝に置いた両手を押さえるが、今回は畳の上に置いた状態から始める。両手首をしっかりと押さえた途端、後に跳ね飛ばされる。私も替わって試みたがびくともしない。『Sさん(私)はもうあきらめた顔をしている』と言われたが正にそうなのだ。畳に置いた手に体重をかけて押さえているのに、なんで飛ばされるのだろか。先生『一で動く、腕で押しては駄目。ならばどうすれば好いか考えなくては…』と言われてもどう考えればよいのか、私の能力ではとても…。
学生のM君と「片手取り両手持ち・二教」の稽古をしている時のこと。私が受けになり手首を掴む。何度かの試みのなかで「あ、これは掛けられるかな」と感じるときがあった。そう感じたときは、まだ弱いけれど技が掛かった。小手を通じて微妙な感触をわずかに感じるのだ。この「感じる」は、なんとなくとしか言いようがないのだが、微妙な感触を感じるのようになったのは、昨年の晩秋の頃だったか、先生から二教を教わった稽古からだろうか。ただ、自分が取りになったときは「掛かる感じ」はない。この感じが「気」だろうか!
学生のA君の希望で今日は「手解き・上げ手」。先生から「上げ手」に関し『Sさんは、遣り過ぎ。他の技でも同じだ』。だから、相手の手が外れてしまうと言われる。たしかに掴まれた手を上に挙げることができても、掴んでいる相手の手が取れてしまっていた。遣り過ぎる(挙げ過ぎる)と、力で押さえてわけではないから技が崩れる、外れる。遣り過ぎない−程を守る−のはどの程度なのか。力抜きの手の養成の難しさであり、面白さでもある。
「後ろ手首取り・小手返し」は『手を取る前に脱力する−脱力はすべてに共通すること』と先生。しかし、脱力してから抜くとはどういうことか。この稽古のとき、Mさんが『石川先生は抜くときに小手を……ようにしていた』とその動きを話していた。私も先生の動きを真似てみるのだが、観察力を磨くのも大事だ。先生は『掴まれている自分の手を引っ張るのは駄目だ』とは言われていたが。
剣術−「柄取り」上段からの打ち込みを受け、左手で相手の柄を掴んで手前に押しつぶすように崩す。学生のS君との稽古で初めて掛かったようだ。掛かったどうかはもちろん自分では分からないが、彼が掛かっていると言うし、体勢が崩れていたので間違いないだろう。何度か試みてすべて掛かった訳ではないので、たまたま!偶然!それでも初めてことだし、とにかく難しい技だから嬉しい。何度も何度も挑戦した技だが、先生の『剣の接点を動かさず、接点から相手に正中線に気を通す』が、そうか、交差した腕を下げ手で崩すのと同じ(全く同じであるかは不明だが)だと気が付くのが遅かったが、実践したら効果があった。一歩前進かな。
納刀は、刀身が短ければ誰でも楽にできるし、腰を引いた状態だと収めやすい。しかし『簡単に入れるのはだめで、刀身が短いと当然入れやすいが、それでは居合をやる意味がない。左の腰を使う。右肩を下げないこと』と腕ではなく左腰を使うこと、柄を柔らかく持つことを教わる。柄を柔らかく持つ、も言葉では簡単だがいつの間にか、握り締めているので刀が動かない。肩の下がりはまだ直らないが、居合を始めて3ヶ月、納刀については何とかできそうになってきた。
「小手返し」は正中線へ意識を通してもS君には掛からない。先生には『気が通ってない(本人は通しているつもりでも)からで、軸を立て、気を正確に通す』。何度か試みて『これなら掛かっている』と言われたのは、初めから正中線に気を通し、掴んでいる手を見ることなく、技を掛けることだと思う。始めに手を見、それから正中線では掛からないようだ。二度続けて掛かったが『気が通っているが、動きが大きすぎる』と先生。「後ろ手首取り・小手返し」も半身になり、掴まれている手は動かさず、腰につけたまま膝・腰の動きで取るようだ。学生のT君から「正面向き手首外し」を試してみたいと言われ、互いに試してみたところ、意外と外すことができた。ただ、石川先生の外し方と比べると、私の動きは一度当たって(力がぶつかって)から抜くそうだ。確かに先生の抜き方は滑らかに外すし、半身になっている。後ろ両手取りも半身が必要だ。
「合気上げ」を教わる。手の角度は、狙いが上になっていると言われていたので、最近はかなり下向きに狙いを変えていたが『相手の腕に沿うように指先を入れる』と訂正される。『肩が下がったり、前傾になったりしたらその時点駄目』『胸を丸める。腕ではなく丹田から入る』。その直後Mさんと稽古。しかし習ったばかりなのにぶつかって挙がらない。挙げようとする意思が相手にわかってしまうのだ。半年ぐらい前なら掛かっていたのがMさんも進歩しているから初心者向けの技では掛からなくなっているのだ。『すべて、一で動く』と言われた先生。どうすれば一になるのか、まったく分からない。
今日は少人数なので小手返しを初めから教わる。「座り技・正面打ち小手返し」立ち技では教わっていたが、座ってでは初めてだ。受けたあとの手の使い方がまるで違っていて覚えるまで何回も繰り返してもらう。立ち技の「正面打ち小手返し」も、掴んだ手を右に引っ張るのではなく、相手の正面に向かって伸ばして(三角になる)崩すことが必要。「後ろ手首取り・小手返し」−私の欠点は『外しながら後ろ見ている』と注意される。
先月「小手返し」を、初めから気を通して掴めば技が掛かると書いたが、実際はそんなに甘くない事がわかった。学生のY君にはまるで掛からないのだ。そんな私を見て先生、Y君を相手に演武。その小手の動きはいつもとは変わった動きに見える。先生『相手によって変える(狙いを変える)、単に押すだけではない』。小手返しは誰にでも同じように掛かると思っていたが、二教と同じで、相手によって掛け方を変える必要があることを教わる。
『相手と繋がりを感じること』を以前から言われていたが、先生から片手を掴まれた時、一瞬体に感じたものがあり、その瞬間に上げると先生の腕がすっと上がった。これは二教で相手の技の掛かりを感じたことと同じ感覚で、言葉や文章では表現できないが、これが「繋がりを感じる」ことかもしれない。「繋がりを感じる」が「合気になる」と同意義なのかはまだ分からないが、最近になって少しずつ「気」を感じるようになったことは確かである。
剣術−「柄取り」は横から先生の動きを見ていると、背筋、頭が水平に伸びた位置で剣を受け、受けた剣は押さず柄は引かないことだ。では押さず、引かないでなぜ崩せるのか?帰り道に気が付いたことだが、難しいことは判らないが、接点は動かさず気を通すことは当然として、剣で相手を斬る、斬ろうとする気が無いためか。両手・足腰を同時に使うことは当然として。
「小手返し」を中心に稽古。先日、「正面打ち」「横面打ち」を教わったとき、これなら合格と言われていたが、足捌き、相手の腕の掴みなど、曖昧なところがあり先生に質問して確認。「胸突き小手返し」など流れが途切れるところもあり、納得できるものではないが、全般的な型の動きは身についたと思う。
先週「転換」の稽古で先生に掴まれるとまったく動けなかった。「手解き−外」も同じで動けない。いつものことだが手が早いと言われる。かなり膝の動きを意識しているのだが。先生『Sさんの動きは手が9割り、腰・足が2割りだ』と。手と足の動きはスピードが違うので『手が2割、足・腰9割のつもり』で動くように言われる。なるほどこれもいい助言を戴いた。後は実践できるかどうか。
今日は9人の参加で、社会人が5人となり学生が少ないのは珍しいこと。稽古はIさんの希望で「小手返し」。小手を返すときの受けと小手、取りの三角形の重要性、崩し方。棒を使っての小手返しは難しくできなかった。今日は3級(小手返し)の審査なので、自分の練習時間に審査に向けた復習をする。さて審査。先生からは『日延べをする?』と言われたが、受けますと返事をし、受けを学生のMさんにしてもらい審査開始。途中「胸突き(右手)小手返し」で突いてきた拳を掴んでの転換を『しっかり転換をするように』と先生から声が掛かり、左手の胸突きではしっかり転換を意識して行ったが、足の捌き方がいまいちであった。それでも最後まで忘れることなく終了。『完璧とは言わないけれどよくできました』とはじめて審査らしい(過去の審査はできが悪く先生も困ったのではないか)評価を先生から。その後の剣術の時間でも先生から審査のことが話題にでて、『流れが途切れなかった』『意外だったけど良かったと』とMさん。『意外は無いんじゃない』と先生。『いや普段の力っぽい(強引な)感じが無かった』Mさん。先生も『予想していたよりも好かった』。審査を受けたのは9級から始まって7回目だが、誉められたのは初めて。自信になる。
袴を着けて稽古をする。図書館で本を借りたりしたが、不明なところがあったのでインターネットで探してみたら「袴の付け方」がある。パソコンを見ながら付け方、たたみ方の練習をしたが、たたみ方が難しかった。袴を着けての稽古は、なれないためもあって重くかんじ、普段よりも汗をかいた。
納刀に関してはかなり楽にできるようになっている。なんだか右腕が長くなった気がするから不思議。先生からも『自宅で稽古をしている成果がでている』。稽古の最後に「半立ち技」の一つを見せてもらう。動きが速くて一度や二度見ただけでは分からない。ましてや、やってみろと言われても。
参加者がNさんと私の二人だけなので、先生と3人で交代しながらの稽古。「四方投げ」の座り技から順次教わり、そのあとでNさんと復習する。この稽古方式だと先生に手順を教わり、すぐにNさんに変わって同じことをするので覚えやすい。技としては「小手返し」のほうが難しいと思うが、「四方投げ」が上級になっているのは『間違った稽古をすると、この技で事故で死人がでるほどの危険な技』(先生)だからだろうか。
今日は、笑いに満ちた稽古日だった。Nさん(八王子で稽古をしているが、最近、中野にも通い始めた)が『石川先生がこんなくだけた面があるなんて!八王子道場では考えられない』と言っていた。中野では、私が入門した当時から稽古時の石川先生の雰囲気はほとんど変わらないと思うし、文京・石神井道場でも同じように思える。八王子での稽古がどのような雰囲気(張り詰めた厳しい!?)なのか分らないが、中野は中年(高)が多い(多いというほど門人はいないが)ので、先生も気を使って稽古を付けていられるのでしょう。
石川先生が休みのため石垣先生が代稽古。護身術として打拳の対処を稽古する。『顔に打ち込みを受けたとき、顔・体を10センチも交わせばよく、顔の中心を打たれなければ致命傷にならない。大きく交わすと相手に対する攻撃ができなくなる』と石垣先生。以上のことを意識して稽古をしたが、この10センチ交わす、避けるのは簡単ではない。相手がゆっくり打ってきても、避けようとすれば大きく顔を動かしてしまう。本能としては大きく避けるのが普通だ。
昔見たボクシング映画を思い出した。天井から丸太を紐で吊り下げ、主役のボクサーがその前に立つ。丸太を前後に揺らし、顔の前に飛んでくる丸太をすれすれに、寸前に交わす練習を続ける。そんなシーンだった。今時はあんな練習はしないかもしれないが、相手の拳をきわどく触れるか触れないかで、しかも寸前にとなると、まず、恐怖感を克服しないといけないし高度の訓練、技術が必要だ。高度な護身術としてはかなりの稽古を続けなければ身に付かないだろう。私はそこまでの技術は無理だから、打拳を交わすのが15センチであっても、攻撃に移る体の構え、心構えができるようになれば充分だと思う。それでもかなりの稽古が必要だ。
座り技の復習中、手順を忘れてしまい体が勝手に動いて『また、新型を作っている(笑い)』と先生。無限神刀流の座り技は14の型がある。動きが似ている型は、初めに覚えた型がスッとでてしまうことがあり、正確に手順を覚えるのは大変だ。休憩時間に来週から半立ち技を始めると言われた。座り技を覚えていなくても、半立ち技を行いながら覚えれば好いとのこと。さらに、『Sさん、最初はどうなることかと(居合を始めて)思ったでしょ』と先生。いや、本当にそうなのだ。まず、手順を覚えられない情けなさ。簡単なことが覚えられない−記憶力の減退−苛立ちは若い人には多分わからないだろう。合気道を始めた時と同じだ(日誌を読み返すと“覚えられない”の愚痴ばかり)。そして納刀、抜刀の難しさ(一定の長さ、重量がある刀の取扱いの難しさ)。さらに模擬刀であっても剣を使う精神的なストレス(ストレスを感じない人もいるだろが)。稽古日が休みになった日は、ほっとする時もあった。
居合は一瞬の静と一瞬の動、静と動の組み合わせた武道だと思う。先生からは、座り技が居合の基本と言われているので、とりあえず14の型をしっかり覚え、石川先生の“格好いい”居合を目指し、好きな型(合気道と同じで好みの型がある)だけでも“まあ、好いじゃない”と言われるぐらいになりたいものだ。
「座り技 四方投げ−横面打ち」で打ち込んできた受けの腕を掴み、脇の間を潜り抜けて投げるのはそれほど難しくない、と思っていたがそんなに簡単でないことが分かってきた。潜り抜ける前の、打ち込んできた腕を掴み真上に上げて崩すのが難しい。私が試みると、受けを浮き上がりさせることができないが、先生に腕を掴まれると体が浮き上がってしまう。当初は腕をひねるのでは、と考えたが『そうではない』と先生。では、掴んでいる肘を伸ばすのだ、とMさんに試してみたら体を上げることはできた。ただし『肘までしか効いていない』とMさん。肩への効きがないのだ。両手で肘を開くように(曲がる反対側)もしてみたが違う。そのあたりを先生に教わる。『力で挙げているだけ。肘が開いている』と指摘される。軸も多分ぶれているのだろう。まだまだ練習不足。
四教の掴みを教わるが、掴みがベタ掴み(たんに指全部で握っているだけ)なっていて、とても掴んでいるとはいえず、効いていないことは自分でも分かる。『簡単にはできない、今はこの程度でも好いが、黒帯になったらできないとだめ。でも、息子にだったら好いとは言わないけど』と先生。
初めての技を教わる。受けに掴まれた襟を『袈裟斬りするように』して崩し襟から外す。初めは受けの小手を叩くようにしていたが、何度か試みるうちに袈裟斬りするようにすると、崩すことができるようになる。ただ、先生からは『Sさんは力を入れ方が強すぎる。もっと柔らかく』と指導を受ける。力の入れ方が強いとは、何時も言われる私の欠点でなかなか直せない。
座り技の復習。動きに緩急をつけなさいと言われる。そうなのだ、型を覚えるのが精一杯で、まだそこまで気が回らないのだ。そのなかでも『納刀が速すぎる、もっとゆっくりと』と先生。刀身を鞘口に付け剣先を鞘口に付けるまでは速く、鞘に入れるのはゆっくり、が教えられている納刀。ところが、先生と一緒に納刀を始めると鞘に入れる速さの違いがハッキリしている。先生の刀身がまだ半分ほどしか鞘に入っていないのに、私は納刀が終わっている(反対に鞘口に付けるまでが遅いのでもっと速く、と言われる)。とにかくゆっくり、ができない。というより自分ではゆっくりと動いているつもりなのだが。『Sさん、せっかちだから』と言われてしまう。太極拳でも、動きが速すぎると言われたことがあり、直すまで時間が掛かったことがある。やっぱりせっかち?
今ごろの季節になると、4年の大学生は稽古に参加することが少なくなり、参加者の顔ぶれも私よりも遅く入門した人が多くなっている。気がつけば私も入門4年目に入っていて、月日の流れの速さを感じる。
剣術−合わせの稽古で『目に動きが出ている』と先生。つまり、剣を振る前に振ろうとする意思が目に出ている、と言うことだ。目を見て相手の動きを察知するとは、剣豪小説にはよく出てくる表現で、かなりの腕の立つ剣客のこと。高度な技量を持っていないと察知できるとは思えない。先生は『稽古を積めば目の動きが分かるようになる』と言われる。もちろん普通に2年や3年程度の稽古で分かるようになる、の意ではなく当人の稽古の質と量(基本的な技の習得は当然のことながら、道場以外での稽古、研究心、向上心等)をこなせば分かるようになるだろう、と言うことだと思う。私には、それこそ小説の世界のことみたいで、とても目の動きを読む、察知するなどできるようには思えないが、それでも、稽古を積めば分かるようになるのかな、との気持ちも少しはでてくる。また、逆に言えば自分の目の動き(斬ろうとする意思)を表に出さないことも必要になる。自分の意思を出さないのが先か、相手の目の動きを読むのが先なのか。あるいは、片方ができるようになると、意思も出さず動きも察知できるのか。
先週の居合の稽古日は、蒸し暑い気候のせいか体調が悪かった。体が気候の変化に付いて行けなくなっている。今日は天気も好く体調は良。中野では新しい入門者があったのでほとんど基本の稽古。そのなかで、「下げ手・受けの腕交差崩し」−交差した受けの腕に小手を合わせたとき、以前から手首、腕の角度を何度も直され、気が入っていないことを先生から注意されていた。角度のことは言われたように直しているだけで、何処が違うのか、その意味を考えたことがなかった。やはり小手の角度、肘の角度が大事なのではないか。以前、同じようなことで日誌に書いたことを思い出し読み返してみると、確かに角度が大事と書いてあった。ではその角度とは?自分なりに考えた角度で、受けに向かって切り下げる。どうだろう。
「下げ手・受けの腕交差崩し」については『角度は確かに言ったが、意味合いが違う。軸を立て、相手の正中線に気を通すこと。あと一つ足らないことがある』と先生。そして『もっと研究をしなさい』。あと一つってなんだろう?
剣術−「切り込み」「受け流し」「柄取り」。このなかで「柄取り」が少し前進したように思えた。剣を掴み相手を体ごと下へ崩すこの技は下へ引っ張る、手前に引くなどの繰り返しであった。今日も同じ繰り返しで、先生から『柄を掴んでいる手の力が強すぎる、半分の力でいい』と言われ、力を緩め、引かない、引っ張らないことを意識してみたところ、効いているからもう一度やってみようとなり、二度目も掛かっていたと言われた。軽くほんとに軽く、力とはいえないぐらい。それで技が掛かるとは思えなかった。先生は『真理は平凡なり』と言われる。ただ、できたのは嬉しいのだが、まぐれで掛かったのではないか、との気がする。
稽古に関し、『闇雲に相手を押さえつけるのではなく、育てることも考えなければ』と先生からやんわりと言われる。確かに押さえてしまう傾向はある。それは、触っている程度では、相手が本当の技の向上にならないと思っていたからだ。中野道場では気をつけているつもりだが、文京道場では若い人が多いこともあり、押さえ気味なのは確かだし、“育てる”との意識はなかった。以前に先生から『上手な受け方を学べ』と言われたことがある。初心者に上手な受けを取ることで、相手が手順・型、体の動きを覚え、技の向上に繋がるのだと。すでに多くの人が私よりも遅く入門している。今後は上手な受けが取れるような稽古を意識していきたい。
NHKのテレビ「探検ロマン世界遺産 中国・武夷山」を見た。武夷山の岩壁から湧き出る水を利用して岩茶を栽培している経営者がいる。この人が作る岩茶はなんと1c15万円にもなるそうだ。つまりカップ一杯の値段。味、香りとも世界最高のお茶だそうだ。しかし、ただ水が好いだけでは良いお茶はできないと言う。変化する天候、湧き出る水、栽培から製法まで確かな技術、この三つの要素がなければできない。それを「天の時、地の利、人の技」と言っていた。この言葉を聞いて私と楽心館合気道との繋がりも同じではないかと思った。
「天の時」合気道を始めようと思い、いくつかの合気道道場の中で石川先生の楽心館に入門したのはまさに天の時。「地の利」私の住所が神奈川や群馬だったら、楽心館への入門はなかったし、中野道場へ通い、少人数で稽古できたことが地の利。「人の技」石川先生の力抜きの合気道。もちろん先生の合気道がいくら素晴らしくても、教わる私自身が技を自分で体得し、養わなければ「天の時」「地の利」がそろっていても「人の技」にはならないが。この三つの言葉は誰にでも当てはまることでもある。あとは「人の技」、自分しだい。
剣術−「合わせ」相手の体の動きを見ているだけでは、何時になっても剣を外すことできない、とはいつも先生に言われていることである。ではどうすればよいのか。『心意気を感じなければならない。二人(Mさん・私)とも「心・意・気」の前、つまり「体」でしか相手見ないから』と先生。では、どうすれば心意気を感じられるようになるのか。気を感じる、気を鋭敏にする!どうやって?5月の稽古時に『目の動きを読む、察知する』と言われたことと共通することだ。こうすれば良い、などの答えは多分なく、基本的には稽古を積むことしかないだろう。と思う。ただ、1週間に1度の稽古では5年10年続けても分かるようになるとも思えない。
「合気上げ」軸を通す、脱力、丹田を動かし腕の力では押さない。このうち「丹田を動かす」は何となく、ほんとに何となく分かるようになってきた。いや、分かるようになってきた感じ、が正解か。掴まれた手首を動かすのではなく、丹田・腰を意識として動かす、それに連れて手を動かす、と思えばよいのかも知れない。座って行うときは腰を動かすことはできないから、動かそうとする意識・気が大事らしい。この意識・気をさらに働かし、成長させると「合気力」になるのだろうか。
剣術−「柄取り」はやはり、まぐれのようであった。いや、100%まぐれでもないようだ。進歩はしていると思う。ただ、稽古では精度が落ちる、あるいは、技として必要なことが、その都度欠けていることになる。先生から何度も言われている『剣を受ける位置、脱力、直線の精確さ』。これらの精度を上げることが上達の筋道となる。始めてこの技を教わったときはとてもできそうには思えなかったのが、ここまでに進んでいる。まぐれから必然へとなるようにしたい。
今月中に「四方投げ」のに審査をすると言われているが、形の流れが今一不明なところがあるので確認の稽古。「四方投げ 座り技・横面打ち」は、相手の腕を掴んで上に挙げるとき、自分の体も一緒に挙げること。また、「後ろ両手取り」では、下がりながら受けの後ろにつき、回りこみながら腕を掴み、脇をすり抜けながら180度反転する。つまり、受けと取りが直線の上に立ったとすれば、後方に下がりながら受けの体を廻すようにして受けと正対し、腕を掴みながら入り身、側面に付き崩し投げる。その時、取りの位置は最初に立っていた位置と反対向きになる。今日の稽古で流れを確認できた。と書いたが「四方投げ」を体験していない人は、これを読んでも分からないと思う。武道の動き・流れは、市販の本でもそうだが文章で表現するのは難しく、読んだだけでは理解しにくいことが多い。とくに「四方投げ」は回転するような動きをするからさらに分かりにくい。
剣の素振りの稽古中、先生の打ち込みを外すのが『あと少し(で外せる)、髪の毛ほどの違い』と先生。確かに先生の剣を外すとき、ほんの少しの遅れだ、とは最近感じることがある。剣の世界では髪の毛ほどの差が生死を分ける。昔の剣客家が試合をするとき(道場での試合稽古以外で)、多くは髪の毛ほどの差で勝負が決まったのではないだろか。技の違いが大きければ、力量が分かるような人は試合などしない。負ければ死ぬこともあるのだ。僅かな差であるから髪の毛ほどの違いと表現をするが、しかし、この差を詰めるのは容易なことではない。届きそうに思えて届かないのも髪の毛ほどの差で、実際は言葉の表現ほど簡単ではない。
私が“少しの遅れだと感じることがある”と思ったことは事実だが、冷静に考えれば、剣術を始めて半年あまりで石川先生と“髪の毛ほどの違い”などに成るわけがない。だから私向きに合わせた稽古での、との前提となり、さらに言えば、下級者に『ほんの少しの遅れ』と思わせる格上の技を使う、先生の思いやり(育成)技術ではないか。仮に、私が“髪の毛ほどの違い”を稽古によって詰めることができたとすると、次はさらに上級の「髪の毛ほどの差」を先生は稽古で演じられると思う。つまり、このまま“少しの遅れ”と思う今の気持ちで稽古を重ねれば良いわけで、その繰り返しができれば徐々に上達することができる。
今日は、2級「四方投げ」の審査。受けは学生のS君。審査前に10分ほど練習をしたときは、ああこれなら大丈夫だと思ったのだが、いざ始まるといきなりミスをした。S君と向かい合い膝行で進み、始めようとしていきなりS君の手首を掴んでしまった。これには石川先生『こんな審査は初めてだ』と大笑い。つい無意識に手が出てしまい、掴んだ瞬間しまった、と思ったが遅かった。受けをする癖が出たのか? 結局、そのミスのためでもないだろうが、流れも良くなく、特に先生から指摘を受けた「転換」の動きを「入り身」に変えてしまったのが悔やまれる。稽古不足が出たようだ。『これから勉強です』と先生。今日の出来は60〜70点が自分の評価だが、ちょっと甘いかな。
納刀時に腰を引くあるいは捻る、どちらなのか気になっていたので先生に伺う。『ときには引く、あるいは捻ることもある』ようだ。まあ、引くか捻るか以前にまず柄を柔らかく掴むのが前提で、ぎゅっと握っていては、引くも捻るもない事になる。
大正大学合気道同好会の合宿に初参加した。場所は山中湖畔の体育館を備えた民宿。昨年も誘われていたのだが、学生だけで社会人の参加が無いとのことなので気が引いていた。参加者は学生が11名、小中学生が4人(内、石川先生のお子さんも参加)。渋滞に巻き込まれ、着いたのはお昼近くで、直ぐ昼食。午後2時半から5時半まで稽古で6時から夕食。これで終わりかと思ったら7時半から9時まで稽古のスケジュール。稽古終了後、一風呂浴びたあとで石川先生とワインを飲みながら12時半頃まで四方山話。翌日は朝食後9時半から11時半まで稽古をする。私は一晩だけなので稽古はこれで終了。昼飯を食べ12時半頃に旅館を出て帰途につく。車で行ったので3時半には家に着いた。私だけ飛び抜けた年齢(もちろん先生は別だが)の参加者ではあったが、稽古自体は疲れることもなかった。好い経験をした。
Mさんと二教の稽古をしていたとき、見ていた先生がMさんに二教を掛け、『私とSさんとの違い(技)を言ってあげて、そうしないと本人が分からないから』。Mさんの感想は『Sさんは手首だけで、肘・肩までは効いていない』とのこと。うーんなるほどそうか、では、どうすれば肘・肩まで効かせられる、切れのある技になるのか。正確な正中線へのズレか、気の入れ方の不足か、軸の立て方が曖昧なのか。勉強しないといけない。
今日から1級の技を教わる。過去に何度か習ったことがある技が多いので、手順を覚えるのに難しさは感じないが、しっかり形を覚えることがまず必要だ。とくに「後ろ両手取り」は体の沈めかた(と言えばよいのか)と掴まれた両手の挙げかたのバランスが良くないので直さないといけない。
夏休みで稽古は1週間休みだった。休み明けの文京は参加者6名と暑さのためか少ない。9月に入ってからの暑さが凄く、かなりばて気味。今日はたまたま少し涼しかったから良かったが。暑さのためもあってか動きの少ない稽古が中心になったが、最近気がついたことがあった。立った状態からの前方回転受け身が、怖さが無くなり投げられたとき回転して受けられるようになった。若い人からすれば何でもないと思える回転受け身だが中高年には厳しいのだ。合宿の時もできるようになっていたが、先生からも、受けが上手くなったと言われようになった。
その後の剣術の稽古で、『Sさんも年内の目標を立てること。居合、剣術、合気で黒帯を目標にするように』と先生。合気は来年の春くらいの目標と思っていたので年内は厳しいと思う。そして、剣術は恐怖感がなくならない。今日もそうだった。先生の正眼からの打ち込みを八双に構えた私が受け、逆に相手の小手を打つ、という型がある。先生からは、剣を正中線に立てて受け、斬り込むと言われているが、それが出来そうでできない。頭上に打ち込んでくる木刀を横に払ってしまうのだ。怖いからだ。何度か稽古をしたが恐怖感が拭えない。ある程度は慣れるしかないとは思うが、それが払拭できないと剣術の上達は無理ではないか。
先生から『Sさん演武会に出ない?あと二人と一緒だから』と言われ、それならとうなずくと、『あとの二人は小学生と中学生』。『えっ、いや先生それはちょっと!』。私の演武の拙さだけが目立ちそうで気が引ける。
稽古は座り技の復習とチェック。『納刀は、切っ先を鞘口につけるとき前傾し、鞘に入れ始めながら軸を立てること』。私の納刀は前傾のままらしい(自分では気がつかない)。あと、基本的に胸(気持ち)で納刀、抜刀することが必要とのこと。つまり、『手での抜刀、納刀は動きがぎこちなく、動きが相手に分かってしまう。胸の中で抜刀、納刀の気を持つ。それが“いつの間にか抜刀し、いつの間にか納刀になる”、Sさんは体術でもそれが無いから手が先にでるのです』。先生が言われた“胸の中で抜刀、納刀する”発想はまるで思いもつかないことだった。
『覚えているだけいいから一人で演ってみなさい』と先生に言われ、「横雲」から始める。二週間ぶりだったが、13ある座り技のうち10近くは忘れずに動けたと思う。もちろん間違えもあったが。一本一本チェックされながらだと、分からなかった動きも確認できる。『納刀の欠点(姿勢)もよくなっているし、速く動くのではなく正確に動く、緩急をつけることが大事』。少し自信がついてきた。ただ、演武以前の「礼法−演武開始から終了までの刀の扱い方」が不安だ。
「一教」。とにかく正中線と言われる。稽古では腕を押し上げ、あるいは捻りになっている、と稽古相手の学生に言われる。先生からは『Sさんの一教は痛い、強引だから』と言われる。方向は合っているし、掛け方も間違いないと思うのだが。以前はできると思っていたのは、やはり思い込みか、あるいは、相手が初心者だからか。いや、皆さん、私の年齢を考慮して掛かった振りをしていたのかも知れない。一教は基本中の基本でありテキスト「意心形心」にも“正面打ち一教を10年続けろと言った(植芝盛平)”と記してある。だから難しい。4年目ぐらいでは相撲で言えば序の口から始まって序二段か好くて三段目程度か。
剣術の稽古時間を9月中は半分居合の稽古をとなる。と言うのも、私も演武会(9月24日)に出ることになったので、居合の練習時間を増やすため。先生から『演武会では五〜六本の技を披露すること』と言われる。演目は自分で選んでかまわないとのことなので、好みの型を選び集中的に稽古をすることが必要だ。先生は『演武会で恥をかくのも必要だ、私も間違えたこともある』と言われたが。
『先週よりも良くなっている。礼法はできなかったら簡単な礼だけでいいよ』と先生。その礼法を今日も教わるがいまだ覚えられない。刀を始めは右手に持つのか左手か。右から左手、左から右手への刀の持ち替えは? など似たような動作(私にとっては)が続くので混乱してしまう。多分、先生は覚えが悪くまごまごしている私に苛々されていると思う。納刀時の指の使い方を直される。今までは親指と人差し指を合わせ、その間と両指の付け根(合谷)に刀の峰を乗せていたのだが、それは間違いで、合谷だけを使うそうだ。私の勘違いであった。
先生と剣の両面打ち。両面打ちは、文字通り八双から左右の面を連続で打つ。通常の面打ちなら、左面を打ったあと八双に構え直して右面を打つので、余裕ができるが、両面打ちは構えを取らず連続で打つので、受ける側は左右(受け)の切り替えをすばやく行うことが必要だ。初めの頃は、先生から打ち込みも私に合わせてゆっくりとした面打ちだったが、最近は速くなり、それに合わせて踏み込みも速くなっている。上半身は何とか対応して受けられるが、下半身が、速い踏み込みに引き足が対応できない。もたれて付いてこない。合気道を始めて足腰も強くなっているが、上半身に比べると私は足の筋力が弱い。まあ、老化もあるだろう! 『それでもやるしかない!』と先生。
納刀時の姿勢と緩急、そして刀を持っているとき『歩くときは腕を(前後に)振らない』ことを注意される。歩行は『前へ進むときはは左足から、後ろへ下がるときは右足から出る』。これは覚えたが、礼法はどうにか覚えたかなぐらいになった。間違えたらしょうがない。演武会での演目は好きな型を選んで稽古をしていたが、どのような動きをしているか分からないので、先生にチェックをお願いする。心配はまるっきり忘れることだ。頭が真っ白になって道場で座りっきりではお笑いにもならない。
中野では今日から2名の入門者。親子だそうで、お父さんは私と同世代。今月初めにも一人入門しているので、中野も急に賑やかになってきた。この稽古日誌を読んだそうで、ああ読む人もいるのだと実感した。入門のきっかけにでもなっていたら嬉しいことだ。久し振りに行った鍼灸院で先生が『まだ週3回も通っているの。凄いね!Sさんは合気道向きの体だし』と言われたが、私は体重が54kgなので身長からいえば痩せていて、通常は60kg以上が平均的な体重だ。合気道向きの体であるかは不明だが、週3回の武道場通いが疲れを感じることなくできるのは、合気道の楽しさであり、積み重ねてきた稽古での身体だ。だから私自身は気負いもなく通っている。
演武会が24日なので最後の稽古日。剣術の時間を30分間居合の稽古をする。意識すると硬くなって体が動かなくなるので、どれだけリラックスできるか、となるが、初めてのことで緊張するのはしょうがない。問題は礼法だ。最終チェックでも順序を間違えたし、提げ緒の掴み方も上手くできない。あとは一緒に出るらしい高校・中学生(小学生ではないようだ)を見ながらか、分からないところは飛ばすしかない。どうなることか楽しみでもある。
「伝統武道と合気道−大正大学合気道同好会主催」の会場は東京武道館。この演武会は各種の武道団体が参集して開催されおり今年で11回目。私自身も過去3回見学にきている。武道館に着いたのは 12時を過ぎていたが、開始時間は1時なのに、すでに道場では出場する人達が練習しているのを目にする。まずは着替えから。袴は居合の稽古をするときに着けてはいるが、いつも以上に着崩れしないようにしっかりと着ける。プログラムを見ると、神刀柔進会(居合は楽心館ではなく、神刀柔進会で教わっている)は最後の出番となっている。一緒に演武する人は聞いていたこととは少し違って私を含めて5人(中・高校生各一人と大人3人)。子供だけではないので、ほっとする。会場では久し振りに何人かの同門者 (他地域で稽古している)と会ったので挨拶や話しをし、あとは演武する際の道場内でのそれぞれの位置の確認をしているうちに開始時間となる。
出場した団体の中では剣術( 居合) を中心に見ていたが、私と同じ程度の人達 ( と思った) の演武も見かけ、気後れすることも無いと気が楽になった。プログラムも進みいよいよ神刀柔進会の出番となった。気になる礼法は、始まる直前に一緒に出る人に聞いたが、所詮は付け焼刃で確認している時間もない。道場には並んで入場したこともあり、同じ動作をしただけで何時の間にか道場内に座って演武を始めていた。型は5本程度で好きな技でかまわないと言われていたが,最後の型に入る前に周りを見ると演武を止めている人もいて演じたのは四本。忘れたらとか、間違えたらどうしよう、など思う暇もなく終わってしまった。終了後は懇親会に参加し演武会が終わった。
演武会の翌日で疲れもあったが、今日からは半立ち技の稽古。演武会用の座り技を続けていたので思い出すのに一苦労する。半立ち技は座り技とは納刀がまるで違うものだ、と改めて教わる。血振りしたあと、剣先を鞘口に付けた時には、開いている両足を揃えていることが基本となる ( 座り技の基本は両足を前後に開いたまま) 。座り技の納刀が体に染み込んできているので、頭の中で切り替えができず、慣れるまでに時間がかかりそう。
石川先生からは、11月に開かれる長尾先生の講習会(大東流柔術・無限神刀流居合術)で、居合の初段審査を受けてみたら言われる。さらに、同時期に合気道の黒帯を取れるように目標を立てなさいとも言われた。居合は座り技の審査を行うそうだが、演武会での演武がどの程度の出来であったのかも分からないし、それよりも座り技のなかで動きが止まってしまう型がいくつかある。「受け流し」がそのなかでも一番の苦手。抜刀したあと左肩に剣を乗せ、右足を軸にして180度回転しながら剣を振るのだが、この回転ができない。留まってしまうのだ。演武会では好きな型だけ演じればよかったが、審査となれば苦手なので動けません、では話にならない。合気道は、「合気上げ」「転換」が相変わらずで、停滞したまま。まだ早いなと思う。
文京の稽古は、普段は午後の3時半から始まるが、今日は会場の都合で午前 10時から。時間が早いためか参加したのはMさん、Sさんと私の中高年者3人。そのためなのか、先生から合気の技が介護に使えるとのことで、寝たきりの人を起こす簡単な技を教わる。まず、うつ伏せ状態になった人の横に座り ( うつ伏せ状態の人の右腕側に座った時は) 、右手の腕をうつ伏せの顔の下に置き、顔の下から腕ごと右手を入れ、左手でその人の左腕を掴み、正中線に向け右手で頭を起こす。すると、上半身が楽に起き上がる。通常の半分くらいの力で済むようだ。起こされる立場になってみたが、自分の体が柔らかく起こされるのがわかる。この“柔らかく起きあがる”が病気・怪我などで起きられない人にとっては、体に楽な起こされ方でとても好いと思う。
今日は1級の審査日。審査後に先生からは『今後の精進が大事。年内に黒帯を目指しなさい』。
11月に居合の初段審査を受けることになったので、座り技のチェックを受ける。まず指摘を受けたのは、『納刀のへっぴり腰を直すこと』。これは家の中の練習では分からないが、道場の鏡を見ながらだと良く分かる。また『納刀が終わったあとも最後まで ( 終わって正座するまで) 気を抜かない』と注意を受ける。一瞬の気の緩みが命に係わる帯刀していた時代の教えだと思う。血振りも、『刀をダラットではなくしっかり止める。体の反射力を使う』。
この反射力を使った違いを先生が実践して示してもらった。背中を後からポンと軽く叩かれる(文字にするとこのような表現)。すると体にズシンと衝撃がきて前に突き飛ばされる。普通に背中を叩いたり押したりでは、腕の力だと相手の体が頑丈だったり、大きく重かったりすると、押したほうが跳ね返されてしまう (例えば壁に向かって腕で押しても跳ね返される。あるいは大相撲の力士の背中を押しても跳ね返されるだろうと思う)が、反射力を利用するとその衝撃力がまるで違う。私も先生の背中に向かって試してみたが、腕力で押したり叩いたり、腕だけ動かしてもこの力は出ないし効果も無い。背中に当たる直前、腕に急激にブレーキを掛けると言えばいいのだろうか。強くやると胸の骨が折れるそうだ。
「上げ手、転換」は基本のなかの基本技。先生からは『分からないかな、週2回やっているのだから他の人よりも上達しなければ』。ウーンそう言われると辛い。年齢差を抜きにしても週1回稽古の人よりも少しは先に進まないと、とはいつも気にしていること。単純に計算して月4回、年 48 回も週1 回の人より道場に通っているのだ。だが現実は先生から言われたとおりだ。通う回数が多いだけ…。
昨日の居合稽古で先生から『私の体の動きを見ていても駄目。技を掛けるときにどんなことを思っているか(先生が)、を考えなくては駄目だ』と言われていたが、これが分からない。「体の動きを見ても駄目」と言うことは、気が通っていない、通しが足りない(もっと丹田を意識する)、と言ったことなのだろうか。そして『上げ手、転換ができたら初段!』と先生に言われても、まだ、そんなレベルにはなっていない。だから、”なにを思っているかを考えろ”の意味がわからないのか? また、『9級から7級の技をきれいにできるようになること』とも言われている。きれいにとは、力技ではない合理的で柔らかな動きを身に付けろ、とのことだろう。基本技をもっと身に付ければ「上げ手」なども上達するかもしれない。そうなった時に意味合いも理解できるようになっているか?
「受け流し」は体を回転しながらの袈裟斬りは何とかできるようになり、その他の苦手な型も動きがスムーズになってきて、型による出来の善し悪しは、演武会に出た頃に比べるとかなり解消できてきたと思う。体のバランスが好くなり、連日の練習の効果がでてきたようだ。合否は別にして初段審査を受けるだけの程度(映像で自分の動きを見ていないので判断できないが)にはなってきたと思う。しかし、礼法は審査が近づいてきたので一通り演じてみたが、違っていると言われ混乱する。なぜ、こんなに礼法が覚えられないのか、私自身が分からない……。今日は以前から疑問に思っていたことを先生に質問。それは、居合も剣の動きは剣術と同じように等加速度なのだろうか? である。先生は『そうです、居合でも剣は等加速度で振るのです』。稽古中に左膝を打撲する。
「上げ手」をAさんと稽古していたら先生が『Sさんは力が強すぎる、もっと柔らかく。強いと相手が反発する。等加速度で柔らかくならないと』。そしてAさんに上げ手を実践し、私と先生の「上げ手」の感触の違いを私に話すように勧めた。Aさん『Sさんは動きに波、あるいは強弱がある。石川先生は滑らか』。なるほど、(1)等加速度で動いている(つもり)のに早さに波がある。(2)普通に(力を入れていない)と思っているのが相手に力の強さを感じさせている。(3)だから滑らか(柔らか)でない、となる。この違いは大きい。私自身はAさんとの稽古では、加速しているとか強い力でといった実感がない。もっと力の変化(強弱)を与えている感覚を自覚しないといけない。これでは進歩が無いのは当然のことだ。石川先生からは何度も何度も指摘されているのだから。
大東流講習会への参加は3回目となる。12 時半から柔術の講習が行われ、4時から居合の審査。左膝の打撲は直らず通常のサポーターの下に何枚も布を当てないと正座ができない。痛めたところを当てないようにしないといけない。居合の審査は受験者が高校生と中学生と私の3人。彼ら二人も私とほぼ同時期に居合を始めたらしい。二人が先に審査を受けたので気になる礼法を見ていたら、あれ、少し違うなと思ったが(二人が間違えたのではと思っていた)、通常の稽古と同じに演武すればと、気持ちの上では堅くなることもなかった。名前を呼ばれて立ち上がり刀礼をして入ろうとしたら、『違うでしょ』と先生から声が掛かり、さあ、その後が大変、長尾先生からも指摘され、石川先生も側にきて何度か直された。この刀礼訂正で冷静を失ってしまい、最初の「横雲」は血振りを間違えてしまい、やり直しはだめだと言われていたのだが、体が動いて勝手にやり直してしまった。演武も体が硬く、何度もリラックスしようとしたのだが、結局それもできずに終了。石川先生には申し訳ないし! かなり落ち込んでしまった。
講習会での礼法の間違いが未だに尾を引いていて、重い気分で道場へ行く。先生からは後日にメールが入っていて、来週に今度は合気道に初段審査をするとあった。審査は「上げ手」「転換」だけ行うとのこと。今日の「上げ手」はここ数週間の先生から受けた稽古と、強弱を無くすことの自覚が出てきたのか、力みが抜けていた。先日の居合審査については先生から『黒帯を用意している』と言われた。合格だと言うことだ。しかし、審査日の礼法ショックがまだ尾を引いていて、あまりうれしさは感じなかった。
神刀柔進会のメンバーとして荒川古武道大会( 柔剣雷心会主催) に参加する。会場は荒川総合スポーツセンター。膝の打撲はすでに 3 週間も経つのにまだ回復せず、居合の時はサポーターの中に柔らかな布を入れている。演武は石川先生と共に4人で出場。まだ硬さが取れず、動きがぎこちないが、これは場数を踏まないと取れないだろう。参加団体の中に、明府真影流研究会の手裏剣演武があり、終了後の講習会で投げさせてもらった。手裏剣は長さが約 15 pで人差し指と中指の間に置き、親指で押さえ刃先を斜め上にしたまま、回転させないで3メートル程先に置かれた畳に向かって投げる(打つが正解か)。演武を見ていたときは、あのぐらいの距離なら一度ぐらいは刺さるのでは、などと思っていた。ところが、 10 回ほど投げてみたが一度も畳に刺さらなかった。見ると演じるでは大違い。改めて難しさを感じたが、小説・映画などで昔から知っている手裏剣を体験できて面白かった。
居合を始める前に、合気道の初段審査。内容は「上げ手」と「転換」。まず「上げ手」。腕に力が入ってしまう。『もっと力を抜いて』と先生。軸を立て、力みを無くし、膝を緩め、動きの一致が必要になる。二度ほどで力抜きができ、合格と言われる。次が「転換」。転換のできない理由は、やはり手の動きが速いためではないかと思い、しばらく前から手の動きを意識的に遅らせ、体の動きと一致させることを意識的にイメージしていて、同門者との稽古では上手くいっていた。しかし、審査ではやはり手が早く、しかも力が強すぎると先生から指摘される。『転換は相手を肩ごと崩す』意識を持つ。先生に掛けられると、確かに肩から引き込まれように崩される。手の動き・力みを無くすことを意識して何度かめ、左手での転換ができた。『もう一度続けてできたら合格』と言われ連続してできた。右手も力が入り過ぎ、やり直してどうにか合格と言われる。
実際のところは、ほどほどに私の程度に合わせもらった、と思う。この2か月ほど集中的に「上げ手」「転換」の稽古を受け、手足の動きが合うようになり、力の強弱をなくそうとの自覚も出てきたし、力みも少しは抜けてきて、数ヵ月前に比べると進歩している気がする。ただ、内容的に初段としての実力は足りないこともあるので、今後の稽古のなかで不十分なところを補い初段らしい実力をつけたい。先生が言われるように『初段は始まりに過ぎない』のだから、これからも楽しみながら合気道を体得できるようになりたいものだ。“楽しむ”を改めて辞書で引くと「その物の持つよさをしみじみと味わう」となっている。この“しみじみ”という言葉が好い。辞書では「心に深く思う、感じること」となっている。正に、楽心館合気道をしみじみと味わいたい。
審査の後は木刀を使っての組居合。たとえば、先生が「横雲」、私が「抜き打−上段から一気に剣を振り下ろす」の型で同時に抜刀する。抜き打ちした私の剣を「横雲」の先生は抜刀から右に払った剣を正中線に戻し立て、抜き打ちした剣を受け、中上段からの斬り込みとなる。この稽古は入れ代わって行うが、流れが掴めなく何度もやり直したが、一人稽古では掴めない型の意味を組み稽古で理解することになる。例えば「横雲」で剣を正中線に立てるのが遅ければ斬られてしまうし、動きと相手との位置を合わせないと剣が空を斬っていることになる。『心を自由にして』と先生。決まりきった型にはまった動きしかできないと、相手の変化に対応できないことになる。対応できる心構え柔軟性が必要になる。
今日の「下げ手」の稽古では、以前と違って立ったまま交差した腕の崩しを行った。今までの居合腰での低い位置よりも崩すのが難しい。この稽古をしていて感じたことがあった。それは、合気道を始めて4年弱に過ぎない私が生意気を承知で言えば、先生の技の掛け方、技そのものが以前とは変わってきていることだ。そう感じるようになったのは初夏のころか、あるいは仲春であったか。「二教」を教わっていた時だったと思う。その後、他の技もやはり同じように感じるようになってきた。動きが少なく (小さく)なり、柔らかな、無駄を無くした動き、と言えばよいのか。以前に先生ご自身も「進化・発展を続ける」と言われていたが、進化した技を理解するこができたとしても、体得するのは容易ではないが、時間が掛かっても吸収し、合気道の楽しさ面白さ、醍醐味を味わいたい。
稽古前に礼法がまだ覚えてないようだからとチェック。先日の審査では情けない思いをしたが、やっと確認できたと思う。稽古は半立ち技の復習。座り技を覚えたこともあり、手順は身に付いている。そのあと、始めての技「水流」を教わる。剣を下から上にすくい上げるようにして抜刀するユニークな動き。何となく見たことがある剣の流れだと思ったが、そう、映画「座頭市」でもお馴染み、盲目の剣の使い手“市”が使う剣さばきだ。クルクルと軽やかに廻る動きで、一度や二度見ただけでは覚えられないが、抜刀の中では一番実利的だとか。
昨日、石川先生から『指導員として水曜日に入門クラスを作らないか』とのメールを受けた。まったく考えてもいなかったことで驚いた。先生から指導員を頼まれるとは、他に人がいない、ということがあったとしても、認めてもらえたことだから嬉しいこと。ただ、実際のところ、半年ぐらいは基本の復習が必要だし、体力的に自信がない。教わると、教えるでは精神的にも違う。そんなことを先生にはお話した。
剣術−「初動を見る」稽古は相変わらず外せない、当たらないが続く。『相手の上だけ見ていてもダメ。全体を見ること』と言われる。先生の動きの癖を探して外そうとしていると答えると、『体の動きで見ていては外すことはできない。気を掴む、感じることが必要。何か ( 気) を感じたら剣を外す。それを繰り返して稽古を続けると、相手の打とうとする気を感じるようになる』。以前、初夏の頃だったか『心意気を感じろ、掴め』と言われたことがあり、気を感じる、気を鋭敏にする難しさを日誌にも書いたことがある。その時も、体力が落ち感覚的にも鈍ってきている者にできるか、と思ったものだ。改めて言われてみると、私は毎日剣を振っているわけではないから、まず、努力不足・稽古不足。向上心も足りないだろう。剣術を始めて1年近くなっているが時間で計ると僅かなものだ。続ければ少しは感覚も養えるだろうか。
先日の稽古で、片手取りされた状態から拳の甲を受けの手首に当て、親指側から小手を廻して受けの手首に親指を掛けて崩す技 ( 二教) を教わった。先生は『これができれば二段』。要点は受けの肩を切る意識を持ち、柔らかく下げること。その技を再度教わった。まず、小手の掴み方をしっかり持つ、手の繋がりを意識すること。あとは等加速度だと思う。「二教」に関して先生からは『まだ先に伸びる可能性がある』と言われた。これはとても励みになる言葉。初心者だけに掛かるのではなく、その上を目指さないと。
「二教」は右手( 受けの左手) と較べると、左手が極端に掛かりが悪くなる。同じ姿勢、掴み方など左右変わりないと思うが、どこかが違っているのだろう。技が掛かりやすいYさんにも、左手では掛かりが悪くなる。今日は学生にも左手の掛かりが悪かった。先生は『左右の腕の硬さによって、技の掛かり方が違ってくる』と言われていたが、私は右利きだから動き(働き)は当然右手が良いが、例えば、右手が利き腕の人が左手で私の右手を掴んで技を掛けようとすれば、反応(感覚)が好いから、あるいは力が強いからその人の動きを制し易いことはある。となると“左右の腕の硬さ”とは左手も右手と同じような動き、柔らかさ(利き手と同じような文字を書ける動き・感覚)ができないと駄目だ、となるのだろうか?
剣術は最後の稽古日。基本ができないまま1年が終わってしまった。剣の素振りの柔らかさ、振りの早さは進んでいると思うが、剣の振りが速くなってもあまり意味がないようで、ほとんど進歩がなかったように思える。
本年最後の稽古。大きな怪我もせず今年も無事に終わった。『Sさんは今年1年で技が向上したでしょう』と言われたが、「上げ手」「二教」「片手取り両手持ち−臂力の養成」など以前に比べると柔らか動きができるようになり、技の向上があったと思う。来年も健康で続けられるように!