楽心館入門記

最終更新日 2014年10月8日

法政大学准教授・文芸評論家 田中和生様


 先日の秋分の日に行われた秋季子供審査会は、千葉市武道館で行われた午後の回に参加してきた。いつもは東京の中野体育館で行われる午前の回に参加しているが、どうしても午前中の予定がつかなかったのである。

 千葉の審査会は、なぜか中野より女の子の割合が多い気がした。みんな一生懸命だったが、上の息子とおなじ紫帯に挑戦する子どもたちを見ていたら、びっくりするほど美しい技を見せてくれた女の子がいた。柔道場の足元に空いた窓から、心地よい風が入ってくる秋晴れの日だった。




 ふだんは文京区にあるスポーツセンター内で土曜の午後に行われている、茗荷谷の親子クラスで小学三年生になる息子と一緒に稽古をしている。合気道をはじめたのは、息子が保育園の年長組だった冬のことで、もうすぐ四年目になる。

 わたしは東京都に住んでもう二十年以上になるが、もともとは富山県の田んぼの真ん中が出身である。息子が生まれて大きくなっていくに連れて、当時はマンション住まいだったせいもあり、力いっぱい走ったり思い切り身体を動かしたりする機会が意外に少ないことが、なんだか気になりはじめた。それで身体を動かす習い事をさせたいなあと考えていたところ、武道なら身体を動かすと同時に余っている力の使い方も学べるのではないかと思いついた。わたし自身は高校生のときに柔道マンガが流行っていたのに影響されて、柔道部に入って講道館の初段を富山県で取ったことがある。


 それからなんとなく近所の武道教室を探しはじめて、土曜の午後にある楽心館の合気道教室を見つけた。下の娘がまだ小さくて、妻がそちらの世話に気を取られていた時期でもあり、自由に動き回りたい年齢になった息子の相手をするのは、休日にはわたしの役目だった。水泳教室に行くことも検討したが、子どもを送りに行って自分はすることがないというのも面白くないと考えていたところで、なによりその楽心館に小さな子どものための親子クラスがあるというのが気に入った。わたし自身も、講道館柔道がかつて敗戦後の日本におけるGHQの指導下で解体されないよう、型稽古中心から乱取り中心のスポーツ化した武道になったという内容の本を読んでいたこともあり、型稽古中心でつづけられている合気道に興味をもっていた。


 それで息子が五歳になった年の冬休みに、館長の石川先生に連絡をして見学させていただいた。土日に習い事をすること自体は決めていたので、そのまま入門するつもりでいたが、胴着などは一ヶ月ほど経ってつづけられることがわかってから揃えてください、という説明をいただいた。見学の日にいちばん驚いたのは、このつづけたい人だけがつづけてくださいという徹底して開放的な門人本位の考え方と、それらのことを穏やかな話しぶりで伝えてくださった初心者の親子クラス担当の先生が、石川館長その人であったことである。


 それから通いはじめて、無事に一ヶ月が経って名前入りの胴着もお願いした。高校の部活動での柔道としか比べられないが、わたしには合気道の稽古はおもしろいことばかりだった。以下は門人の方には当たり前のことばかりだろうが、初心者の感想として箇条書きにして記しておきたい。

          


 まず男女が一緒に稽古すること。柔道なら体格差が大きいし、異性とは練習でも組みにくいだろう。でも護身術である合気道は、女性なら体格の違う男性に受けてもらう方が、実はより本質的な稽古になりうる。どうしても出られなかった次の週に、振り替えとして大人だけのクラスに参加させてもらったとき、まだはじめたばかりだったわたしは中学生の女の子に力が入りすぎだと笑われたことを思い出す。胴着の下にTシャツを着るのがエチケットであるということも、そのときに知った。


 次に型稽古なので、少しでも先にはじめてより経験の多い人がそうではない人に対して教えること。だから親子クラスで初心者の大人は、先生と組むとき以外は先輩である子どもに教えを請うのである。わたしも自分の子どもの前で、ちゃんとした親にならなければならないと少し無理をしていたのだろう、稽古をはじめて小さな子どもに教わる立場になったときの自由さは新鮮だった。年齢も人生経験も関係なく、よく知っている人から虚心になにかを教わるという経験は、いつだって愉しい。


 それから技を改善するために、できるかぎりの言葉を駆使すること。型稽古は教える方から見れば、技をやってみせて受けてあげることのくり返しだが、教わる方から言わせてもらえば、見せてもらってすぐできるようになるなら、なんの世話もない。だいたい見た目の動きを似せようとするのだけれど、それでは技の内実が大きく違っている。その違いを教えてくれるのが言葉である。技ができている人はできていない人にどこが違うのかできるだけ説明し、できていない人はわからないところをできている人に尋ねる。すると型稽古は言葉の訓練でもあり、身体を動かしに行って言葉を交わしているのである。しかしわたしはこの会話から、いかに身体の動きを言葉することが難しいか、また言葉でいかに身体の動きが変わるのかを知った。身体そのものは言葉にならないけれど、たぶん言葉は身体の一部なのである。


 最後に、技の動きの結果から逆算した途中の動きはだいたい間違っていること。これは最近とくによくそう思うようになったのだが、大人はいままで生きて蓄積してきた経験のなかで、自分なりの合理的な身体の動きのイメージを脳内にもっている。しかしその脳内のイメージほど合気道の稽古の邪魔をするものはない。そうしてわたしが近代的な生活のなかで身につけてきた動きは、どうやら合気道が理想とする動きとはまったく違うらしいということはわかってきたのだが、悲しいかなその脳内のイメージが邪魔をする。技の動きの結果から、そのイメージにしたがって合理的と思える動きを身体がしようとすると、それはたいてい合気道としては「合理的」ではない。だから技がよくなったと先生にほめられるときは、意識してそのイメージを裏切るような動きをしている。そしてその「合理性」は、毎日木刀を振るような生活をすれば身についてくるらしいということまでは見当がついてきたが、わたしはそれをする手前の初心者の立場に憩っているところである。

          


 親子クラスで練習していていつも感心するのは、大人よりよほど子どもの方が技の飲み込みが早いということであり、また余計な経験をしていないのですぐに「合理的」な動きができてしまうということである。そしてこれはやっとそう見えるようになってきたのだが、合気道として「合理的」な動きは無理がなくて美しい。その「合理性」は、相手より体格や腕力で上回って圧倒するという近代的な合理性とはまったく異質だが、しかし身につければ体格や腕力で劣っていても相手を圧倒できるという点で、たしかに理に適っている。


 千葉の審査会で見た女の子の動きは間違いなくそうだったが、その動きの「美しさ」こそ、三十代で入門したわたしが少しずつでも稽古をつづけ、言葉の力を借りて、子どもに教わりながら手に入れたいと思っているものである。


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