合気道本部道場

最終更新日 2020年7月



 令和2年4月22日に、櫛田昌之指導員はご逝去されました。4月26日ご葬儀でしたが、武漢ウイルス感染防止のため、ご遺族の密葬となりました。

 5月17日 私他2名はご実家を訪問し、ご焼香させていただきました。その際、お母様が「昌之の東京・千葉での生活の様子を知りたい」と希望されました。

 そこで、写真集を作り追悼文を添えさせていただきました。

楽心館長 石川智広


櫛田様ご家族の皆様へ

 

はじめまして、古川と申します

 

櫛田さんと初めてお会いしたのは、まだ私が入門間もない頃になります。

毎週月曜日の末広武道館での稽古に参加していた私は、入門して間もないある日、振替で木曜日の本部道場での稽古に参加させていただいた事がありました。

本部道場の更衣室で着替えていると、体の大きな方が、「あの、袴のつけ方教えてください」と、はずかしそうに小声で尋ねてきました。それが、櫛田さんとの最初の出会いでした。

入門時期は私と同じ頃でしたが、もともと武道をされていた方でしたので、稽古を受けていた、剣術、体術は私とは格段の差がありました。

ただ、居合術に関しての技術の差は他の物ほど感じられず、私が一方的に良きライバルと考えておりました。

 

月曜日が祭日の時、お仕事がお休みの櫛田さんが、末広の稽古場にいらっしゃる事がありました。櫛田さんが私と同じ居合の形を稽古しているのを拝見すると「まだ、追い越されていないな」と安心していたものです。

 

櫛田さんが私の事をどう思っておられたかはわかりませんが、いつも、少し恥ずかしそうに小声で話かけてくる、はにかんだような櫛田さんの笑顔が忘れられません。

最後にお会いしたのが昨年の秋頃だったと思います。真新しい稽古着を着ていらした櫛田さんに

「おっ、新しい稽古着ですね」と尋ねたら、

「さすが、古川さん、よく気づきましたね」

といつものはにかんだ笑顔で答えてくれました。

 

私が一方的にライバルと思っていた櫛田さん。

いつか、追いつき、そして追い越せればと思っていた矢先の訃報に驚きました。

 

櫛田さんに並ぶ事はできなくなってしまいましたが、櫛田さんが愛した武道にこれからも精進していきたいと思います。

 

ご冥福をお祈りいたします。 

 

大東流 古川幸生 拝

 

古川さんは落語関連のイベント会社を、浅草で経営されています。毎週、都内から高速道路を使って、通っています。どちらかといえば不器用な方ですから、後輩にあたる櫛田君に稽古を追い越されるのではないかと、ライバル視していたそうです。

継続は力なり、という意味では、古川さんは天下一品です。櫛田君は、彼岸で動く学びから動かない学びへ、不動の武道を稽古しています。これからも古川さんのライバルです。 石川

 

 

 

櫛田さんとの思い出         本部道場 根本勝爾

 

私にとって櫛田さんとは忘れられない思い出と傷跡がある。

私の額の生え際に川の字のように3本の傷跡がある。 左の傷は昔、海で遊んでいたときの傷、右は仕事の時の傷、そしてど真ん中にある傷が櫛田さんとの忘れられない傷跡です。

 

櫛田さんが入門当時から毎週木曜日 居合、剣術、体術の稽古を一緒に続けてきました。 3年前の夏の終わり頃、毎年明治節(113日)に行われる演武会に向けて櫛田さんと木刀で剣術の稽古をしていた時のことです。

櫛田さんが仕掛け、打ってきた木刀を私が切り落とし(受けて、落とし)切りつける。

という技を練習していた時 まさに居着く、の言葉通り身体が固まってしまい、「あっ」 と思った時には櫛田さんの木刀を額で受けてしまいました。

完全に自分の不注意、ミスです。  自分では軽く当たった感触でしたが頭部の傷なので出血が多く、石川先生、櫛田さんに大変迷惑をかけてしまいました。

その後しばらくは櫛田さんも私もお互いに剣術の稽古ではおっかなびっくりしながらの稽古でしたが演武会ではしっかりと打ち合った技を披露できたと思います。

それから去年の演武会まで3年連続して櫛田さんと木剣での剣術技、居合技の組演武をできたのがとても良い思い出です。 今年も一緒に演武できると思っていたのに残念です。 

私たちは精一杯稽古に精進します。櫛田さん、どうか安らかにお眠りください。

今でも鏡を見るとうっすらと額に傷跡があります。

 

根本さんは櫛田君の先輩として、稽古場での諸々の模範を示す立場にありました。稽古では危険なことも生じます。というか危険な状況設定で、どう逆転するかが稽古です。この時は事故生じ痛い体験しましたが、それをどう対応し乗り超えるかも稽古です。こうした時、人間性露わになり、化けの皮が剥がれるものです。根本さんと櫛田君は、平常心を保ち立派な対応しました。 石川

 

 

 

櫛田昌之君の思い出   大東流 古川博文

一緒に稽古をしていると、「解らないから教えてください!」といつも熱心に聞いて来ます。それで、懇切丁寧に教えたつもりで「どう、解った?」と尋ねると「解りません!?」という答えが返ってきます。こういうことの繰り返しではありましたが、彼の武道に掛ける純粋な想いと人懐こい人柄にほだされて、また質問に答えてしまうのです。また、子供の教室での指導を担当されていて、どんな風に教えたら理解してもらえるのか、集中力が無く稽古を途中で投げ出してしまう子供さんにどう声掛けしたら気を取り直して稽古に集中してもらえるのか、よく悩んでいて相談を持ち掛けられました。その都度、彼の人に対する思いやりと優しさを感じたものです。

それでも将来的には、自分の道場を持ちたいと夢を熱く語っていました。体調を崩されてから直接力付けてあげることが出来なかったことが大変残念ですが、彼と共に稽古に励んだ思い出を大切にして精進して参りたいと思います。

                   

 

古川さんは、楽心館の主要な指導者です。他の稽古人たちも尊敬し、頼りにしています。櫛田君も素直な気持ちで、質問したのだともいます。櫛田君は稽古中に「見えた!」と言って、試してみると「やはり、できません」。そんなやりとりが多かったのも、懐かしい思い出です。 石川

 

 

 

 

櫛田昌之先生の逝去の報に接し、誠に残念な思いです。

私たち親子は毎週日曜日の子供クラスで櫛田先生に二年間指導していただきました。

子供達が櫛田先生の大きな体を先生が居ない所で「熊みたいだ」と楽しそうに言っていたのを思い出します。

子供達が昇級し帯の色が変わる度に一緒になって喜んでくれた先生、子供達の努力が足りず、帯の色がそのままだった時には次はどうすれば合格するのかを熱心に指導してくれた先生、そんな先生の事が子供達は大好きでした。

そして指導者として常に勉強し、悩み、努力し続ける姿も思い出されます。

私からの質問に対し、櫛田先生が困ったであろう時に出る「来週までに石川先生に聞いておきますっ!」が私も大好きでした。

まだまだ教えていただきたい事がたくさんあったのに、悔やまれてなりません。

心よりご冥福をお祈りいたします。

本部親子クラス 曽我部 聡

長男 曽我部 颯季

次男 曽我部 悠汰

三男 曽我部 碧玲

                

櫛田君は、本部日曜日クラス・蘇我カルチャー・西新宿カルチャーの担当をしていました。曽我部さん家族は、本部日曜日クラスです。櫛田君は、最初から全クラス持ったのではありません。この順番で徐々に、担当クラスを増やしました。曽我部家族は、櫛田君にとって、最初の生徒となりました。治療が始まると、指導を空けて迷惑をかけるとの思いから、「申し訳ありません」と何度も言ってくれました。「今は治療に専念して、元気になって復帰すればいいんだよ」と、話したものでした。哀しく思い出されます。石川

 

 

西新宿カルチャーの関係者6名の追悼文が続きます。

 

櫛田先生のこと、先日、鈴木先生から伺いなんと申し上げてよいか言葉がみつかりませんでした。

しかしながら、ご教示頂きました大切な時間を思い返せば胸がいっぱいになります。

ーーー

櫛田先生の合気道に対する真摯な心意気にいつも感動し、背筋がスッと伸びるはようで、その日々を思い出すと今も胸が熱くなります。

 

また、一方で、「今日は暑いですね。」という声を聞くと、無邪気な笑顔で嬉しそうに冷房の温度を下げてくださる温かな一面に触れると、なんとも言えぬ穏やかな空気が流れ、ホッとすると同時に次への向上心がふくらんでいきました。

これまでの素敵な時間を決して忘れることはありません。

心よりの感謝とご冥福を心よりお祈りいたします。

 

合掌

 

西新宿カルチャープラザでレディース合気道 御厨奈保

 

 

 「レディース合気道教室にて、櫛田先生からご指導いただいておりました畑山と申します。この度は誠にご愁傷様です。

 突然の訃報に言葉もありません。

 武道の先生らしく体が大きくて強いにもかかわらず、とても優しい物腰で合気道を教えてくださいました。昇級試験を受けることを勧めてくださり、より充実したお稽古になったのも櫛田先生のおかげです。

 また教室でお会いできると思っていたので、とても寂しく悲しい思いです。

 略儀ながらメールにて失礼しました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。」

 

西新宿カルチャープラザでレディース合気道 畑山真弓

 

 

 

「紳士で優しくユーモアあるお人柄一生忘れません。御指導ありがとうございました。」

 

西新宿カルチャープラザでレディース合気道 小川あきこ

 

 

 

 「突然の知らせに驚いています。

 心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 櫛田先生というと、ずいぶん細やかな人だなという印象があります。

 いつもご自分が暑いのを我慢して、教室のエアコンの設定を、寒がりの私達に合わせてくれていました。私が初めて道着を着た日は、先生も袴のかわりに道着姿で着方を教えてくださいました。初めて昇級試験を受けることになった時も、自信を持って臨めるよう前向きのアドバイスを沢山頂きました。

 私のいるクラスは女性ばかりの緩いクラスなので、先生も初めの頃は、力加減や、教え方など、いろいろ気を遣って随分緊張していたと思います。それが段々とリラックスした感じが見受けられ、レッスンも波に乗ってきた矢先の入院でした。もうすぐ忘年会や新年会のシーズン、そんな集まりでも持てば、また更に親睦も深まるかしらと思っていたのですが。

 6月に入り、またレッスンが始まります。教室に行くと先生がいるような気がします。

「皆さん!暑くないですか?」私たちがハイと応えると、嬉しそうに温度を下げに行く姿が忘れられません。」

 

西新宿カルチャープラザでレディース合気道 県伸子

 

 

ご遺族様へ

 

楽心館の門下生の鈴木を申します。

櫛田先生とは、私が派遣されていた新宿カルチャーセンターに石川先生を通して

サポートとして入って頂いたことが縁で、その後教室を引き継いで頂きました。

ですので、ご一緒したのは2か月間くらいでした。

 

当時の受け持ちは女性と子供クラスでした。

女性クラスの様子は生徒の方々が生の声を届けて下さるようです。

ですので、私からは子供たちとのお稽古の様子を少しお伝えできればと思います。

 

櫛田先生はご立派な体格でしたし、

(健康が疑われるようなことが起きるとは信じられませんでした。そして未だに。)

石川先生は写真で見て子供たちに怖がられていたこともあり

子供たちに引き合わせるときに慣れるまで時間がかかるかな?と思っていました。

 

ですが、朗らかな櫛田先生に子供たちはすぐ懐き、楽しそうにしていました。

私が女性ということで、子供クラスも任されていたのですが、

子供の相手が得意なわけでもなく体力的にも厳しくなってきていたところでしたので

元気すぎる子供たちに振り回されることなく丁寧に指導してくださり、とても助かりました。

 

幼児〜小学校の低学年くらいの子供が中心で、お稽古の合間に持ち上げたり・回りたり・転がしたりを、特に喜んでいたようです。

櫛田先生は子供たちの話を聞いては、よく笑っていらっしゃいました。

一緒になって楽しそうに稽古している姿が思い出されます。

当時、私などよりよほどしっかりされていると思ったものです。

 

短い間でしたが指導の様子、お人柄、生徒さんとの相性、そしてご本人の勉強熱心さ

(何れは生業にしたいとおっしゃっていました)

に甘えて受け持ち教室をそのまま引き継いで頂くことになりました。

その後の生徒さんからの評判を聞いた限りでは良かったと思っています。

櫛田先生ご本人にとってはどうであったか、わかりませんのでご負担でなかったことを祈るばかりです。

 

夢があり、気骨があり、礼節を弁えた尊敬できる人でした。

儚くなられたことが、あまりにも惜しいとしか思えません。

 

櫛田先生のしかしその短い生において、ご縁がありましたことをご遺族様に深く感謝いたします。

鈴木 愛子 (西新宿カルチャーの前任の指導員)

 

 

 

 

櫛田さんは同じ茨城出身で色々お話いたしました。映画のことや、合氣道を人生でどう活かすか、など

いつでも「強さとは何か」を考えていた櫛田さんはだからこそ、いつでも明るく元気でみんなを楽しませてくれたんだと思います。

闘病中もお見舞いに行ったらいつもニコニコした明るい櫛田さんで、最後まで本当の強さを持った素晴らしい武道家でした。

 

茨城県指導員 二宮正嘉

 

櫛田君にとって二宮指導員は、茨城へ帰ったら良いコンビになったと思います。私も二人で盛り上げてくれることを、楽しみにしていました。それが、櫛田君の入院からお見送りまで、二宮指導員のお世話になりました。雪中送炭、困った時の働きこそ、信頼の礎となります。お疲れ様でした。石川

 

 

「櫛田さんとの思い出」

私は櫛田さんと知り合ったのが道場生の中で一番遅く、一緒に練習した期間は一年半しかありません。

短い間でしたが私の個人的な練習に付き合って頂いたり、何度もご飯をご馳走になったりと良く面倒をみて貰いました。

私にとって櫛田さんは先輩にあたりますが、友達のような関係の人でした。

櫛田さんが入院した際もお見舞いというよりも、ただお話がしたく何度も面会に伺わせて頂きました。

退院後にまた一緒にご飯でも行きたかったのですが、コロナの流行によりそれが叶わず残念です。

未だに櫛田さんが亡くなったという実感がもてませんが、今までご指導頂きありがとうございました。

大東流 戸村憲雄

 

戸村さんは、佐原から通っています。櫛田君の数少ない後輩です。良く病院を見舞ってくれて、ありがとうございました。後輩からも慕われる櫛田さんでした。石川

 

 

 

    


弔辞

 櫛田君、そちらでの生活ぶりは、いかがでしょうか?いつも「櫛田君!」って呼んでいたので、今日もそのように、呼ばせていただきます。櫛田君は人を楽しませる性格だから、「石川先生も、早くこっちへ来てくださいよ!」との明るい声が、聞こえてきました。この駄文は貴方への弔辞です。櫛田君のことを忘れないように、お母さんに千葉での生活が分かりやすいように書きたいです。そしてまだ私はやるべき仕事ありますので、あと15年はこの世に生きたいです。だからまだまだ、私を放っといてくださいよ。

 さて櫛田君と初めて会った日から、追憶します。

 

楽心館との出会い

 平成27(2015)年9月12日入門しました。当時は41歳です。見学に来たのは、その一週間前だったと思います。椅子を出すと、膝を開いて、どっしり座っていました。訪問の趣旨を聞くと、「剣を学びたい」とはっきり答えました。その背景には、「それまでの武道修行(空手)に限界を感じた」ことがあったようです。それでも格闘には人一倍自信を持っていて、合気ということにはやや懐疑的な様子でした。「体術も体験してみたら?」ということで参加させると、納得で入門しました。

 さてここで話がそれますが、お母さんに分かりやすいように、「護身術」・「合気」について補足します。護身術とは、体力の劣る者(非力)が、体力や訓練で勝る者の暴力に対して、心身を護る術です。護身術には柔道・合気道・相撲・空手など日本の武道や、様々外来の格闘術あります。昌之さんが十代より精進していたのは、空手です。

 

空手と合気の差

 非力な者が、体力ある者に逆転できる護身術には、「崩し」と「攻撃」の二つの要素が必要です。昌之さんが長年精進した空手は、

崩し:捌きと陰陽の変化。

攻撃:突き蹴り。

 新しく楽心館で櫛田君の稽古は、剣術から派生的に生まれた体術。

崩し:捌きと合気。入り身・転換・体の変更と三つの捌きあります。しかし稽古の主体は、合気という相手を無力化して崩す法です。

攻撃:関節を捕えたり、崩し抑える技です。

 

職業の様子

 大手飲料メーカーの派遣社員として、大手スーパーで販促営業をなさっていました。担当の店舗は東京・埼玉・千葉と広範囲で、軽自動車に販促用品を積み込んで、走り回っていました。江東区で、バッタリ会ったことがありました。首に身分証明のカードを下げ、鞄を持っていました。各店舗の責任者へ販売方法の提案をし、少しでも自社の売り場面積を確保するよう努力していました。

 「お母さんのいらっしゃる茨城県を、担当させてもらえないの?」と私が聞くと、「そちらにはすでに担当者がいて、今は難しいです。少しずつ変えていきたいです。」と、櫛田君は答えていました。年俸制で決まった収入は、経費込み。高速道路料金を節約して、下道を使っていました。茨木へ生活拠点を移す日のために、貯蓄するためでした。

妻とスーパーに寄った時など、櫛田君の販売促進していた商品を見かけると、「これ櫛田君のだね?」と言いながら買い物かごへ入れてしまいます。

 

稽古の取り組み

稽古は木曜日夜・土曜日朝・日曜日朝と参加して、精進しました。ガソリン代・駐車場代を節約するためだと言って、ヘルメットを被って自転車で道場へ通った時期もありました。みんな笑ってみていましたが、これは長続きしませんでした。

木曜日は営業の訪問先を工夫して、午後6時開始の稽古に間に合うように努力していました。「お願いします!」と言いながら、大きな身体で入ってくるのが、今では一番懐かしい思い出です。

稽古中、私が技を教示すると、櫛田君がいきなり「見えた!」と叫ぶのです。彼なりに「理解した。発見した」という意味です。でも他の稽古人は、「ああ、またいつものことだなぁ?」と、これを笑って見ています。櫛田君はこの後、試してみるのですが、できません。「やっぱりできません。どうしたらできるのでしょうか?」と言うのが、櫛田君の決まったパターンでした。 

一方で長年武道の世界にいたので、対応力は抜群でした。与えられた場で、何が要求され、どう対応すべきか?良く反応できていました。稽古中に「櫛田君!」と呼ぶと「ハイッ!」と出てきて、私が技をかけると身体が良い動きをしました。

やがて櫛田君は日本古武道振興会の演武要員に加えられ、成果を出すようになります。

無限神刀流居合術 初段 平成29年(2017年)3月15日 印可

その後、指導員としてクラスを担当するようになります。年に1クラスのペースで増えました。

令和元年、体術か剣術で段位を出そうとしている頃、櫛田君が不治の病に罹患していることが分かりました。令和元年11月の木曜日夜の稽古、櫛田君は頻繁に水分を取ります。私は「甘いものを取り過ぎたら、いけないよ」と、声掛けしました。それ以外は普通に稽古したものです。その4日後の月曜日、私が午前稽古していると、櫛田君から電話が来ました。

「櫛田です。今、病院です」。

私「どうしたの?」

「夜眠れない日が続いて、居眠り運転したら危ないので、病院で診察うけました」。

私「太り過ぎで、糖尿病か何かだろ?」。

「いえ、癌です。余命半年だそうです」。

いきなりそのような展開となりました。

後で聞くところによると医師は、「覚悟を決めてください。肺癌で余命半年です。ここでは治療できないので、専門の病院を探してください。紹介状を書きます」と話したそうです。これはのちに筑波大学付属病院で、血管肉腫で、肺から心臓へ転移していると診断されました。

会津伝小野派一刀流剣術 初段 令和元年(2019年)11月4日 印可

この許状は令和2年1月2日に、筑波大学付属病院の病室へ、私が届けました。「体術で出そうと思ったが、今回は剣術にしたよ。復帰したら体術の段位を許してあげるから、辛抱して治すのだよ」と、話しました。

櫛田君は木刀を病室に持ち込んで、「私はこれを構えて、動かない稽古をしています」と語りました。

櫛田君が以前やっていた空手を投手の直球勝負と例えるなら、合気は無回転スローボールです。打者が変化を読めないために、対応できない。その間に球は、打者の前を通り過ぎます。スローボールは、遅いけど結果として速い球です。合気でゆっくり柔らかい動きを稽古するのは、この例えと同じです。櫛田君は不治の病と向き合うことで、「ゆっくり柔らかく」をさらに進化させ、「不動心・不動体・不動剣による動かない稽古」へ入りました。「この闘病を機会に、名人になって還って来なさい」。そのような話をして別れました。これが私と櫛田君の最後の面会になるとは、想像をしていませんでした。

長く語ってまいりましたが、これが弔辞としてふさわしいものか?浅学菲才な私のこと、自信ありません。ご無礼をお許しください。

ご実家へご焼香させていただき、大きな身体の櫛田君が遺影・骨壺に納まった様子を見れば、諦めがつくと思っていました。しかし、私は今現在も、貴方がお亡くなりになった実感しません。木曜日の稽古へ「お願いします!」と言って、大きな身体が入ってくるのを想像してしまうのです。それは他の稽古人も、みな同じと思います。

それはなぜでしょう?それは櫛田君が、楽しい思い出をたくさん遺してくれたからです。私と稽古してくれて、ほんとうにありがとう。櫛田君の稽古・指導と向き合う姿勢は、立派でした。安らかに眠ってください。

令和2年7月7日

楽心館長 石川 智広