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大東流以外にも「合気」を使った武術はありましたが、それを根幹に据えたのは大東流であり、それから派生した合気道の専売特許といっても過言ではありません。
しかし大東流の中興の祖「武田惣角」は単なる武術の技術としてではなく、大阪朝日新聞社で初対面の人達を誰に聞いたわけでもないのに会社の序列順に並べて見せた際に、「合気を使ってそのようにした」と言ったというエピソードが示すように、あたかも「合気」が超能力めいたものでもあるかのようにも扱っており、その真実の姿は曖昧模糊としたものになっています。
また合気道の開祖「植芝盛平」も大本教の熱心な信者であったことも影響し、その「合気」は宗教色の強いものとなってしまいました。またそれぞれのお弟子さん達も、就いた時期や教えられた内容の違いから、「合気」への理解は全然違ったものになっています。
しかし大東流では「武田惣角」が初期の頃は「大東流柔術」で免状を出していたのですが、中期以降は「大東流合気柔術」で出していたことや、その高弟の一人が小柄で非力だったため「柔術は教えないが合気を教えてやる」と言ったことなど、「合気」が明確に技術的なものとして捉えられていました。
そこでこの稿をかりて技術論としての「合気」の一端をご紹介すると共に、いかに稽古すれば身につけられるかも併せて述べていきたいと思います。
「合気柔術」を修得するには「合気」と「柔術」をわかっていなければなりません。その「合気」の稽古に二年も三年もかかるようではどうしようもありません。実用になるレベルの「合気」は、一年程度で理解してもらえるものです。
掴まれた部位から「合気」を通して、瞬時にでもゆっくりとでも相手を崩したり投げたりするのは当たり前で、関節技など使わなくてもその場にたたき伏せる程度のことができなければ、「柔術」と組み合わせた「合気柔術」は使えません。
それがわかって初めて「合気柔術118本」の世界に進めます。それぞれの技ひとつひとつで使う「合気」の形態が違うため、基本原則がわかっていないと応用がきかないからです。
崩すだけではなく落とす、そのままの姿勢で固めてしまう、相手の力を抜いてしまうなど「合気」はさまざまな使い方をします。
それらは別々の技術のように見えますが、実はいくつかの原理で動いていく作業に過ぎず、力学的な面だけみれば非常に精妙ではあっても理解できないものではないのです。
合気を掛ける場合に陥りやすい罠に、掴まれたところをどうにかしようとする焦りから、過早にその部位を動かしてしまおうということがあります。
動かすこと自体は悪いわけでありませんが、本来「合気」は非常にわかりにくい微妙なものです。それを少しでも早く理解するには、出来るだけ動作の条件を同じにして一つ一つ確かめながら稽古を積まねばなりません。それはあたかも科学の実験のように何回も同じ作業を繰り返す中で、データを積み上げていくような作業なのです。
そのための第一の条件として、「掴まれた」部位は「接触面」として「静止」させていく事が必要になります。通常の場合、人間は自分の動作を完全な形では認識できておらず、同じ事をやっているつもりでも微妙に違っています。「名人・上手・達人」の仕草が「一寸の狂いもなく」ということがその条件であることは、逆に普通人はやたらと狂いを生じさせやすい存在であることを示しています。
そのような人間だからこそ、少なくとも一カ所は固定された場所を作り、そこを起点にして他の部位を動かしていくことが重要なのです。
では接触面以外の所を静止させては駄目なのかという疑問もあるでしょう。これは次の「力を反作用で使う」にも関連してきますが、「合気には脱力が大事」ということを実現させるためにも接触面だけ静止させていくことが必要になります。
「脱力」については「力を抜くこと」などという浅薄な理解は論外ですが、屈筋の力を抜くことであって伸筋を使うというような、一面的な解釈がまかり通っているのもご承知の通りです。
「脱力」というのは単なる力抜きではなく、たとえば筋肉運動だけとらえても腕の屈筋と伸筋だけでなく胸筋・背筋などあらゆる筋力の総合運動であり、不必要な筋力をそぎ落とし必要な筋力だけが整然と用意されている状態を指します。それはあたかも自動車のギアはニュートラルに入ったままだが、アクセルは踏まれてエンジンは活発に回っており、それを精妙に制御しながら必要なときだけギアを入れて、道路もないような崖地を運転するようなものと思えばよいでしょう。
そのような作業の最中に接触面以外の所を静止させることは、その場所を静止させるためにあちらこちらの筋肉を固定運動に使うことになり、身体の居着きをうむことになります。
さらに言えば「接触面の静止」も、その掴まれた所を静止させるために手首や肘や肩・胸・腹・背・腰などを居着かせるのはもってのほかで、流動性のある状態においておかなければなりません。
具体的に言えばたとえば初心者だと、手首を掴まれたときに肘や肩を固定させて腕の筋力だけで「合気」をかけようと力んでしまいます。それでは駄目でその場合は大東流で言う「朝顔の手」を使い、逆に肘や肩は流動的な状態を保つように筋力を制御しなければなりません。(「朝顔の手」だけでもその力学的構造論だけで膨大な頁を費やすことになりますので、後に詳述します)
それには必要な手首の曲げ、小手の屈筋・伸筋と上腕の屈筋・伸筋の制御による肘の揺動、それに連動した肩胛骨と胸襟などの使いによる肩の落とし込みなど、正確な指導と術理にもとづいた稽古の積み重ねが必要です。
また「梃子の複合体の構築」とも関連しますが、通常は掴まれたところを梃子の作用点ならまだしも、甚だしい場合は力点にしてしまう人が多く、支点として使うということをほとんどしません。
例えば右手首を右手で掴まれた場合に、ややもすると掴まれたところに力を入れてしまうため、力点にしてしまうかせいぜい肘を梃子の支点にした作用点にしてしまうのが関の山なのです。
本来の合気で言えば掴まれたところは支点、肘の動きで力点を作り作用点は相手の肩というのが望ましく、その相手の肩を浮かすことにより相手の上半身をつり上げることができるのです。それを実現するためには、「接触面」である掴まれた箇所を固定しておかなければなりません。
このようにして「接触面の静止」は合気の重要な一部分を構成しています。「静止」させる技術論は別の機会に述べることとしますが、力んで固定するのではなく、自分の身体の中での力学的な位置関係、また相手との相対的な位置関係での静止、空間的な意味での絶対的静止など、その応用範囲は広範囲に及んでいます。
また私見ですが合気道で「合気」を修得するのに時間がかかるのは、「動」の中での稽古が中心であるため、この「接触面の静止」ができずその理合いを感得するのに時間がかかるせいではないかと思われます。
みなさんは通常「力」をどのように使っているでしょう。色々な筋力を一つの日常的な「作業」の中で使うときに、どの筋肉を使っているかなど意識などしないのが普通でしょう。ましてや、慣れた動き以外に別の力の使い方で同様の「作業」を出来ることがわかっている人はまれですし、必要もないのに別の動きで置き換えようとする人はほとんどいません。その結果、たとえば「コップを机から持ち上げる」という「作業」は無意識でやれるようになり、それ以外の動作でコップを持ち上げることは頭脳も身体も受け付けなくなります。これを「動きが轍(わだち)になった」状態と言い、熟練した動作ほど固定したものになります。そして大半の人が同じ様な轍におちいり、それゆえ予測しやすい動きになります。
逆に言えば予測できない動きには大半の人はとまどいを覚え、わずかですが反応速度で遅れを取ることになります。それはほんのコンマ以下の遅れですが、武術の世界では圧倒的な差になります。
しかし単に意表をつくだけの動きなら、それは「猫だまし」の域を出ません。また単純な「速さ」を求める結果に陥りやすく、合気を掛けるのに必要な「間の早さ」を実現するにはほど遠いものになってしまいます。
そこで力を「作用」として使うのではなく、「反作用」として使って同じ効果を得ようという考え方にたどりつきます。ではどのように「反作用」で使うのでしょう。
単純な運動で例としましょう。例えば「手で押す」という運動をみてみましょう。
通常腕で物を「押す」には、足をしっかりと踏ん張り、体幹を固定して壁とし、腕の筋力を使って伸ばす運動を行います。これが「作用で使う」作業です。
これと同様の効果を生むのが、足は踏ん張るにしても、体幹は固定せず背中が丸まるよう胸筋と背筋を使い、腕は腕立て伏せのように使う運動です。これが「反作用で使う」運動です。それは自分の身体は動かさないようにして物だけを動かそうというのではなく、自分の身体が動いてしまう反動で物も動かす作業なのです。(このことはたとえば一箇条「肘押さえ」の際に、どのように一つの動作の中で「押し」と「引き」を同時に実現するかという原理を示しており、重要な意味を持っています)
物理の授業で習ったように、作用に使う「力」とそれから生まれる反作用の「力」は同量です。では身体の力は固定されるだけに使い、押す力は腕を伸ばすだけの場合と、上半身だけでなく下半身も「自分を横向きに腕立て伏せする」運動に使っている場合の、使っている筋肉の合計はどれほど違っているでしょう。考えるまでもなく答えは明らかです。
さらに体幹が固定されている場合には、相手方も力がどこから出てきているかを簡単に察知でき、対抗力を素早く生み出し「押しくら饅頭」の状態にしてしまいます。
しかし体幹が固定されずに後方に動いていれば、相手は支点を失い有効な対抗力を生み出すことが困難になるのです。
このようにして全ての動作を「轍にはまった」今の状態から、別の動きで置き換えてみようという発想の転換をおこないます。
しかし「言うは易し、行うは難し」です。轍から抜け出たつもりでも、すぐそばの別の轍にはまりこむのが関の山。だからこそ稽古が必要になるのです。赤ん坊が這い這いからよちよち歩き、そして走れるようになるまでと同じ様な苦労が必要です。しかしそれでは試行錯誤に時間がかかりすぎてしまいます。
そこで「先人の知恵」に学ぶことが必要になります。中国拳法でなぜ「含胸抜背」「抱月抜背」という言葉ができたのか、空手や拳法で「肩を抜く」あるいは「肩を落とす」のはなぜなのか、なぜ「脱力」という言葉が大事なのか。
実はみな同じ目標を目指しています。単にリラックスさせるだけでなく、自分の全身の力を最小限の動きで最大限に使いたいために、出来るなら筋力を100%効果的に使わんが為になのです。
中国拳法の「沈墜勁(沈身勁)」は大地を踏みしめる反動で勁を使うとよく言われます。空手などの「通し」の技術も、単に腕を突き出すだけではなく体のある運動を反作用で使っています。
私の好きな言葉に、中国拳法家がよく使う「武術は一つ」であるという言葉があります。私はこれを「身体を使う技術は一つである。その表現(利用)方法が武術の種類によって違って見えるだけだ」と理解しています。実際の所、力学的に見れば人間の動作は大変複雑ではあるが関節と筋肉を使った梃子運動に他なりません。
ことは武術だけにとどまりません。私の友人の20代のストリートダンス教師は、いとも簡単に「胸を上中下三つに分けて使う」と言ってのけます。45歳の私ですら社交ダンスを10年以上もやり、それを武術に応用できるようになって「胸を分けて使う」のに何年かかったことでしょう。やれやれ。学ぶべきものはあちこちにあります。
それは当たり前のことなのです。筋肉は一つの方向にしか縮みません。関節はある範囲でしか曲がらないのです。身体の一つ一つのパーツは決まった運動しかできません。それらをどう組合わせるかで違いが出てくるだけで、動きの本質は同じものなのです。
合気道も合気柔術も身体運動です。表現方法も非常に似かよっており、合気柔術の原理がわかれば合気道は非常に理解しやすいと思います。
だいぶ横道にそれてしまいました。「反作用」の話でした。
「反作用で力を使う」ことには別の利点もあります。身体の(足だけでなく)「居着き」をふせぐことです。
「居着き」は身体のある部位の固定から生まれますが、それは「作用で力を使う」場面で多く起こります。「力を反作用で使おう」とすると、固定されがちな部位を動かさざるを得ないことから、逆に「居着く」ことはできなくなるのです。
また「反作用で使える」力は一つにとどまりません。「腕で押す」作業を「反作用で押す」作業に置き換えようとしたとき、何通りの方法があるかを知れば驚かざるを得ません。腕の筋力よりも何倍も強く、相手が気づけないほど遠い部位から生まれてくる力を知ったとき、なんと無駄な力の使い方をしていたのだろうと呆然とする想いでした。
「反作用の力」は合気を動かす巨大なエンジンでもあるのです。
これまでにもまして、なんだか物理学の授業でも受けているような気持ちでしょうね。実はその通り。これまでの説明でわかるとおり、「合気」の力学的側面ばかり解説してきましたから、そうならざるを得ないのです。
もちろん「合気」はそれだけにとどまるものではありません。こちら側だけの筋肉運動だけでは「独りよがり」の結果を生みかねません。相手の筋肉反射を利用する技術、心法まで踏み込んだ「気の誘導」、「目の死角」「体の死角」「力の死角」の三つの死角を意識した「間積り」、高度な「運足」と「体の運用」などなど、必要な要素を挙げ始めたらきりがありません。
だからこそあてずっぽうの「稽古」では駄目なのです。10年たっても「合気のあの字」もわからないのでは、何のための修行なのやら。最初にも述べましたように、基礎的な合気は早ければ1年程度で身につけてもらわないと、次に進めないのです。「合気」のない「合気柔術」は単なる体術。それも合気という重要な要素が欠けた「気の抜けたビール」のようなもの。それなら痛いおもいを覚悟して、「柔術」に打ち込んだ方がまだ意味があります。ああ、いかん。また脱線してしまった。「梃子の複合体の構築」の話でした。
「合気」を掛ける際に、「ああこれは梃子だな」と意識される方は多いと思います。例えば「押しと引き」という言葉をよく耳にしますが、一つの動作の中で同時にそれを実現するには、「押している」という力学構造に「引く」という別の力学構造を重ねなくてはなりません。
4でも例に挙げた「肘押さえ」でいえば、前方に腕で「押している」という力学構造体と同時に、背筋や胸筋・肩胛骨などを使って後ろに「引く」という別の力学構造を作り上げ、相手の肘が「押さえられてもいるし、同時に引かれてもいる」という正反対の状態にしなければならないのです。
しかしこれでは単に自分の身体をどう使うのかの技術論にすぎません。それを「複合体」のレベルに押し上げるためには、さらに別の力が必要になってきます。水平面では「押しと引き」とでバランスの取れた力の関係に、垂直面で上から押しつぶす圧力を腹筋操作で作り出す。そのときに必要なのは握った箇所を「支点」、腹筋力を「力点」、相手の肘が「作用点」というような、単純な「梃子」関係などでは不十分です。
「押しと引き」で成立している力のバランス構造自体を「支点」とし、腹筋の引き込みは「力点」、相手の肩から上半身を「作用点」にできるような「梃子」を重層的に加えなければなりません。そこまで行って初めて「複合体の構築」の入り口に入ったことになるのです。
二箇条といわれる技を例にとってみましょう。取られた腕を手首をまわして相手の小手に手刀を掛け、相手の肘から肩を操作して最後には腰や膝まで崩していく。これが「崩し」にまで進んだ「あるべき姿」です。しかし通常は相手の手首を固定して、おじぎしながらねじり倒すのがせいぜいというところでしょう。
ここで求められるのはスピードや力任せの、相手の手首が痛いだけの技ではないのです。それにはまず相手の手の内での、親指・小指そして人差し指の付け根を結んだ「力の三角形」という梃子構造を壊していきながら相手の手首を「くの字」曲げ、自分の手刀が触れた点と相手の指との間に「橋を架けるようにして」、別の形の「力の三角形」をつくり出すことが必要です。
そしてその手刀を無理に押し込んでいくのではなく、逆に自らの肘を操作して相手の指に負荷をかけながら相手の手首をコントロールしていきます。それが出来ればその「力の三角形」自体が一つの「支点」となります。
その「支点」を利用して自分の肘や肩の動きを「力点」とし、まず相手の肘を「作用点」に、それにより相手の肘をコントロール出来れば次には肩をと、次々と複合梃子を掛けていくことが出来るのです。
しかしそれを腕一本の作業でできるのでしょうか。筋肉は一つの作業のために収縮させてしまえば、別の作業には使えません。一度ゆるめて角度を変えて再度、収縮運動を繰り返すしかないのです。それではどんなに急いでも動きと動きの隙間に「間」ができてしまうことになります。
それを防ぐためには腕ではなく、胸筋を使い背筋を使い腹筋を使いと、使える筋力は全て使えるようにしておかねばなりません。そして不思議なことに相手との間に複合梃子が掛かっていれば、自分の使った筋肉と同じ相手の場所に緊張が生まれ、いわば同調(シンクロ)した状態(「共鳴」「共振」などいろんな言い方がされていますが)になります。それをうまく使って相手の腰を「弱腰」にしたり、膝から崩したりすることも出来るようになるのです。
このようにして複合的に掛けられる圧力(プレッシャー)に対しては、人は対応することが出来ず容易にバランスを崩されていくのです。
同一方向へあるいは別々のベクトルが、様々なレベルの力が強弱多彩に、一カ所だけでなく数カ所にわたって掛けられた状態を想像してみてください。3つに耐えられるとすればかなりのものです。
しかし複合梃子のかけ方がわかれば、一瞬に最低でも5以上の複合力を生み出すのは簡単なことなのです。