(社)楽心館 氣と丹田の合気道会 Rakushinkan Aikido のサイトへようこそ
この欄は、楽心館をお預かりさせていただいている石川智広が担当します。
合気道を学ぶ目的、それはすべての武道・芸道とも共通するものだと思います。それは簡単にいえば「自分を生かし、人を生かす」道を歩むということです。少し難しくいえば「自己形成、社会形成への実践」の道を歩むということです。楽心館の入門誓書の文言は「教えを真心込めて修錬し、自己形成と社会形成への実践に努め、門下としての流儀の誇りと名誉を重んじて、恥かしからざるよう修行することを誓約いたします」
とあります。
より難しい言葉を使うと、「理事一致、理事相忘」というそうです。
修行し抜いて、修行してない凡人とまったく同じになることです。平凡道を非凡に歩むとも申します。この境地を古神道では「八百万神」(やおよろずのかみ)といい、仏教で「衆生本来仏なり」といいます。 植芝先生もこのことを次のようにいっています。
「自分一人でも開眼すれば、宇宙の氣はみな悉(ことごと)く自分一人に、自然に吸収されて来るのです。そして悟るべきものはすべて悟るのであります。タカアマハラも自分にあるのであります。天や地をさがしてもタカアマハラはありません。それが自己のうちにあることを悟ることであります」(武産合気p.77)
36歳で亡くなった正岡子規はこのことを次のように平明におっしゃっています。「自分は初め、悟りとは平氣で死ぬことだと思った。しかしそうではない。平氣で生きることだ」と。それではいったい、合気道をどのように学べば、このような境地に至るのでしょう。
武田惣角先生・植芝盛平先生の広められた武道を合気系武道といいます。特に植芝先生の流れのものを合気道といいます。植芝先生にとっての合気とは、『武産合気p.51』によると
「剣を使う代わりに、自分のいきの誠をもって、悪魔を祓(はらい)消すのである。つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄(はく)が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な魂の花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。そして経綸の主体となって、この世の至善至愛なる至誠にご奉公することなのです」
とあります。少し読んだところでは、神道の予備知識がありませんと解釈できないように思います。ここでは儒教や仏教で説明する心の状態、あり方と照らし合わせて、植芝先生の思想を理解するように努めたいと思います。
合気道は、「合気」と「道」とこの二つのものがあって合気道です。まず合気です。古くは古代中国の思想に遡りますが、日本では日本刀を使った真剣勝負の鋩(きっさき)の争いのことを意味します。それが武田惣角先生によって明治期に格闘術の理法として使われるようになりました。それは今日も合気武道とか合気柔術と呼ばれているものです。それを植芝盛平先生が、大変宗教心の篤(あつ)い方で、合気の「合」は「愛」に通じるとして、万有愛護(注1)の心に通じる道として「合気道」と名づけました。
私たち「氣と丹田の合氣道会楽心館」は次のように合気道の理念を定めています。「合気道は、養氣錬丹の合気の理法の修錬による人間形成の道である」。これは、小川忠太郎先生を初めとする諸先生方が定められた、日本剣道の理念から学ばせていただいたものです。
合気ということの中には刀による真剣勝負という観念が入っています。これが大事なのです。この観念が入っていると人間の根元的なものに触れるのです。自分の命がそこでなくなってしまうから、生死の問題に直結するのです。だから合気の中には「生きる」という人生の根本理念が入っています。よく合気道の稽古の中で「剣の理合いをもって〜」と説明されるのは、単に理合い・間合い・体捌き・打ち方が剣のものであるということを超えて、生死の問題に直結する真剣さのことを意味します。
次は「道」です。真剣勝負の初めは武術であったけれども、勝つためにはいろいろなものを研究しております。徳川の初めごろに、武道の中に仏教・神道・儒教・老荘が入りました。島田虎之助(勝海舟の師)という剣術家は儒教を学んで、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。須(すべか)らく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」と。武術もこうなると本能的に「生きる」ことだけの武術と異なります。
ここにいう「身が生きる」ことだけの武術を「護身術」といいます。自分の身の独立・身体的健康を護ることを目的とします。これはこれで大切なことでして合気道や武道の第一目的になります。
しかしどうでしょう。私たちの日常を省みてください。何か大きな壁に向き合ったときのことを思い出してみてください。本当に難しいのは、その壁の厚さ自体でしょうか。いやそうではありません。本当に自分の進む道を妨げているのは、その壁自体よりも、自分の心の弱さであることが多いはずです。本当にその壁に向き合うことができていれば、8割がたその壁は乗り越えたも同じといえます。実際にはその壁に至る前に、自らの雑念妄想で氣力が半分に萎(な)えていないでしょうか。私が昔ある方から聞いた言葉に、次のようなものがありました。出典はわかりませんが、記憶のままに書いてみたいと思います。
「間想客観(かんそうきゃっかん)は志の立(たた)ざるによる。一志(いっし)既に立つ。百邪(じゃ)退聴(たいちょう)す。これを清泉(せいせん)涌出し、傍水(ぼうすい)の混入しえざるに譬う。」
意訳しますと、「志が立たずに迷っているのは、雑念妄想のためである。それがひとたび志が立てられれば、百もの邪悪な心が、驚き退いて逃げる音が聞こえるであろう。これはあたかも、泥に汚れた池の水が、池の底からこんこんと沸き出る泉の中に、混入していくことができないのと同じである」。
武道も同じでして、向き合った相手の技がどうのこうのよりも、自らの心と向き合うことが大切なのです。簡単にいえば心の動いたほうが負けてしまうということです。ここにいう「心が生きる」ことを目的とする武術を「護心術」といいます。合気道や武道の第二目的になります。俳優の渡辺徹さんが司会を務める「おしゃべりクラシック」というNHKFMの番組に、レ−サ−の片山右京さんが出演されたことがありました。概略次のようなことをお話されていたことが印象に残っています。
「時速300km近いスピ−ドで走ると、つい『どうしよう』と不安が生じます。テクニックがどうのこうのというよりも、この不安が問題なのです。陳腐ないいかたですが、日常を『公明正大に』とか『清廉潔白に』生活することこそ大切なのです」と。
さて仮に武道第一、第二の目的を達したとして、その人は勝者といえるでしょうか。そうではありません。人には生・老・病・死という絶体苦が立ちはだかります。人はどうすればこの避けることのできない絶体苦を、穏やかな氣持ちで迎い入れることができるようになるのでしょうか。
そもそも人間にとっての死とは、いかなるものなのでしょう。実は死後の世界のことは、私はわかりません。ただいえることは、死ぬ瞬間の思いが、怒りや憎しみに満ちたものであれば、その人にとっての死は永遠の暗黒です。感謝や愛に満ちたものであれば、その人にとっての死は永遠の光の世界であるということです。そのことを昔の宗教家は「天国」といったり、「極楽浄土」といったのだと思います。しかしその「死ぬ瞬間の思い」とは、ごまかしの効かないものなのです。それまでの生き方を凝縮したものを、自分自身に見せつけられることになります。宗教のたとえ話の中に、「地獄の閻魔大王」、「最期の審判」というのがあります。生前の罪悪を審判し懲罰するといいます。ここにいう大王や審判者は、実は自分自身なのです。その時どのような想いを出すか、それこそ本当の真剣勝負なのです。これは私が二十歳の頃、凍結した路面で、運転する車がスピンした一瞬の事故で体験したことを申し上げました。
ここにいう「光の世界に生きる」ことを目的とする武術を「護神術」といいます。合気道や武道の第三目的になります。
植芝先生ご自身のお話によると、次のようになります。
「この世は悉(ことごと)く天之浮橋なのです。ですから各人が、信仰の徳によって魂のひれぶりが出来(でき)るのです。表に魂が現れ、魄は裏になる。今迄は魄が表に現れていたが、内的神の働きが体を造化器官として、その上にみそぎを行なうのです。これが三千世界一度に開く梅の花ということです。これを合気では魂のひれぶりといい、又法華経の念彼観音力です。私はその最初の産屋(うぶや)となって立つのです」(武産合気p.67)
簡単に人間形成を話します。人間を大別すると三つに分けられるといいます。最低を「人類」。人類は動物的に自分の欲望だけれを遂げれば、人なんか全然かまわないという類の人のことです。本能・感情想念のままに、動物的に生きる人のことです。
普通は「人間」。人間は名誉と利益を目標として生活、これは当たり前で悪いことではありません。本能・感情想念を車のアクセルに譬えると、知性・理性は車のブレ−キに譬えることができます。車のアクセルとブレ−キを使えると、一応は車を走らせることができます。しかし走らせることができても、目的地がはっきりしない運転は、迷って事故を起こしやすいものです。ですから人間として知的・理性的に生きるということだけでは、やがてこれに執着し苦しくなってしまうのです。科学的知性だけだと、人類を破壊してしまう核兵器を作ること、遺伝子操作をすることも可能です。宗教的理性に凝り固まると、宗教戦争で多くの人を殺すことも正義になってしまいます。
そこで、人間で結構だけれども、もう少し高度の目標を持って生きたい。その目標を古来より神・仏・霊・聖そして宇宙意識といいます。このような悟性に目覚めた人を「道人」といいます。
人間は生死を恐れる。道人は生死がありながらそれを超越するといいいます。ここまでが仏教でいう自利・「個人形成」・理の修行です。次はもう一つ社会形成・事の修行。個人形成と社会形成があって(理と事があって)初めて人間形成ということです。自分が楽しければそれを仲間にも分けてあげたくなる。これを合気道の精神に当てはめると、万有愛護・万物育成が社会形成です。個人形成は生死を超越したところの「覚」(かく)。覚(さと)るということです。社会形成とは、自分だけの覚りではなく、社会一切がということです。だから社会形成のほうが大切なのです。合気道やすべての文化の目標はすべてここです。世界平和まで行くのです。合気道や武道の第四目的になります。そして最終目標です。
私がお預かりしている「氣と丹田の合氣道会楽心館」の本部道場(千葉市)の正面に、「心楽氣和」と掲げてあります。これは私の書道の先生である、出水紅湖先生にお願いしたものです。これを拝見するたび「世界の人々が心楽しく氣が和らいでくださいますように」と、お祈りさせていただいております。
植芝先生は
「この道(合気道)を進むには、まず自己を完成しなければなりません。国をよくし国を完成し、人類をよくし人類を完成し、地球をよくしていかなければなりません」(武産合気p.34)
「一国を侵略して一人を殺すことではなく、みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道の目標であり、宇宙建国の大精神であります。」(武産合気p.128)
とおっしゃっています。
(注1)「魂の緒をとぎすまし、そして大祓(おおはら)い祝詞を奏上すると、その道々より神々がお招きせぬとも、相参じ相集いて、八百万の神々がその人を守り、導いてくださるのです。山川草木、禽獣忠類にまで、その処を得さしめ、共に楽しむのが合気道であります。」(武産合気p.80)
末記 以上の小論は漢籍・仏道・武道に造形の深い小川忠太郎先生の講話録を参考にして、植芝先生の宗教・合気道の心を説明できるように努めました。私が学生時代、小川先生の講演・稽古風景を拝見する機会を持てたことは、貴重な体験でした。皆様もぜひ下記の書物をお読み下さい。
小川忠太郎範士「剣道講話」 体育とスポ−ツ出版社
立田英山 「人間形成と禅」人間禅叢書
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