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大東流と合気道

合気の成り立ち

大東流合気柔術は、会津藩御留(おとめ)流であった御式内(ごしきうち)を、武田惣角(そうかく)先生が明治時代に大成創始された。日本古流柔術の中でも盛んな柔術であり、現代合気道の技の基礎となっている。

合気道は、大東流から派生して植芝盛平先生が創始した。当初は合気道と大東流は渾然一体のものであり、植芝先生は自分の弟子(主要な合気道家の多く)に1930年代半ばまで武田惣角の名を記した大東流目録を授与している。

(参考)植芝先生が初めて惣角先生(54才)より指導を受けたのは、1915年(大正4年)2月、北海道遠軽の久田旅館である。

太平洋戦争の前後する時期より、深い宗教的見地に立つ植芝先生は、合気道を世界和楽の手段とする教えとしてお広めになった。これは「初期合気道」と区別して、「現代合気道」と呼ぶべきものである。楽心館では、現代合気道とその背景にある伝統武道を学ばせていただいている。合気の理法を学ぶことで人間形成し、21世紀に世界和楽の実現へ参画したいと思う。

ここでは「合気」の成り立ちについてお話をしたい。

大東流の「合気」

元々は古代中国の医学書にある言葉という。それが日本に伝わり一刀流(武田惣角先生が修める)では、理合を説明する言葉として重要視される。

武田惣角、1860年10月10日、会津坂下町御池の武田屋敷に生まれる。同年に柔道の嘉納治五郎先生も生まれているのは興味深い。

惣角先生は、小野派一刀流を会津藩剣術師範渋谷東馬(とうま)より教伝され、明治4年より榊原鍵吉に直心影流を教伝された。榊原鍵吉は、1887年(明治20年)、明治天皇の御前で、兜割りをされ、みごと三寸五分切り込まれた剣の大家である。他に祖父より神道精武流を学び修めた。惣角先生の父親または他の者より学んだ武術についての詳しい内容は、はっきりしていない。惣角先生はこの武田家に伝わる武術に、全国での長い武者修行で学んだ多くの武術の要素を組み入れて、1898年(明治31年)前後より1922年(大正11年)まで「大東流柔術」として活動を開始する。その後「大東流合気柔術」として活動し、1943年(昭和18年)4月25日青森市「旅館伊藤」方で死去。一緒に供をされた山本角義(かくよし)先生が死に水をとった。

以下は大東流山本角義伝宗主長尾全祐(ぜんゆう)先生の口述にしたがって記載する。

「明治年代までの技の体系は、柔術・体術であった。この若い時代に合気之術を使えたのではなく、生涯に3回経験した真剣勝負の中で会得した後、大正時代『大東流合気柔術』とした。この頃(1922年の前、いつ頃かは不明)になって柔術・体術を補うものとして呼吸技・合気之術が加えられた。だから大東流の合気を語るとき、「真剣勝負」としての剣の練磨・理合は、大変重要になってくる。合気には小手之合気・体之合気・術之合気・氣之合気(触れ合気)がある。これら合気は、他流派の柔術には見られないものである。

惣角先生が体験した真剣勝負とは、1、1876年頃会津。盗賊を相手にする。2、1882年頃仙台。当地に師団を作る関係であった道路工事にヤクザが関わっていた。その関係の土方ヤクザ11名に囲まれモッコ(道路工事に使う麻縄で作った網)を被せられた。懐剣でそれを破り、逃げながら相手の刀を奪い、3名を斬り絶命する。3、1904年頃函館。当時ヤクザが圧力をかけ、公正な裁判を妨害することが横行していた。惣角先生は裁判所の要請を受け警備(長尾先生のお話では『用心棒』)をしているところへ、ヤクザが白鞘の刀で襲ってきた。2名斬り絶命する。この事件に関連して、「白鞘之口伝」が角義先生に伝えられている。

その他にも少年次代に戊申戦争、修行時代(明治10年)に西南の役を見ている。西郷隆盛の軍に加わろうとしたのである。

また柔術・体術・呼吸技・合気之術の大東流の体系は、学ぶ人の体型・性格・学歴等を見て、それにふさわしいものを選んで教えた。身体の大きい人には柔術技や当て身を多く使うもの、植芝先生や角義先生のように身体の小さい人には、呼吸技や合気技を教えた。」

以上ほんの一部であるが、長尾先生のお話を紹介させていただいた。惣角先生の弟子3万余人ともいわれているが、合気之術を使った弟子は4名とされている。

以上から推察されるのは、惣角先生の合気とは、「一刀流的な相討ちの術理。殺しの術に徹することで悟道に至ろうとする禅的風味」と思われる。

末筆ながら、懇切なご指導を賜った長尾全祐先生に、心より感謝を申し上げる次第です。

合気道の「合気」

植芝先生の宗教的境地については「植芝先生の合気」に解説してあります。参考になさってください。

合気とは「力抜き」によって相手の氣働きを制し、相手の力を奪ってしまう術である。

大東流の「合気」とは、武田惣角先生が真剣勝負による体験から自得されたものである。合気道の「合気」とは、植芝盛平先生が篤い信仰により会得されたものである。

大東流と初期合気道は術理・技は渾然一体のものである。植芝先生の写真集「武産合気道『別巻』」を見ても、同じく身長の小さかった山本角義先生に伝えられた大東流と類似する技も含まれている。合気之手の「力抜き」を惣角先生は実戦で、植芝先生は信仰で会得されたことの差は、「現代合気道」の中に見ることができる。

合気道には、大東流にはない体捌き、すなわち円転する導きの崩しがある。説として、真楊流柔術や新陰流剣術の影響をあげる話を聞く。それもまったくは否定しないが、私は信仰の説明的表現との説をとっている。

神道といい仏教といい、日本人の信仰の中心を占めるのは先祖崇拝である。万葉集の「挽歌」(死者を哀悼する詩歌)を見ると、人は死ねば魂(タマ)がからだから遊離して山に登るということが繰り返し詠われている。そのタマはやがて日本列島の山野河海に鎮まって先祖の神になった。魂(タマ)は起源的には玉とも同根とされており、魂がまん丸い球体とイメ−ジされているところがおもしろい。魂がからだから遊離して天に昇るのも、らせん円運動である。

「合気之手」によって相手を玉(タマ)のように導いて、意識を高いレベルへ向上させるのが、合気道の「合気」だろうと思っている。

楽心館長石川智広

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