山本角義派の系譜と特徴
山本角義派の系譜と特徴
武田惣角との出会いと入門

山本角義(やまもと かくよし、本名:留吉)は1914年生まれ、秋田県出身の武術家で、大東流合気柔術の中興の祖・武田惣角の直弟子です。昭和12年(1937年)頃、北海道函館の料理店で板前をしていた山本青年は、店に通っていた武田惣角という老人と偶然出会いました。初めは「人相の悪い怖い爺さんが来た」と思ったそうですが、惣角が「ワシは武術家だ」と語り始め、やがて「おまえも来てみろ」と稽古に誘われたことで入門を決意します。こうして山本は20代半ばにして大東流合気柔術の門を叩きました。
内弟子修行と深い信頼
昭和16年(1941年)になると、山本は武田惣角の内弟子(住み込み弟子)となり、本格的な修行を開始します。当時すでに80歳近くで身体の不自由だった惣角の身の回りの世話を、山本は献身的に務めました。食事を作り、惣角を背負って風呂に連れて行くなど、生活のすべてを支えたといいます。惣角は自分の背中で世話をする山本に対し「山本、すまんな、すまんな」と何度も繰り返したと伝えられ、師弟の間には深い信頼と情愛が育まれていきました。このように晩年の惣角に最も近く仕えた山本は、「最後の愛弟子」として特別な存在になっていきます。
惣角から託された継承の証
昭和17年(1942年)、山本角義は惣角から教授代理(師範代)の許可を受け、大東流の正式な伝承者として認められました。さらに惣角は、晩年の山本に大東流の正統継承を示す数々の貴重な品と称号を授けています。山本角義が師から託された主な継承の証は次の通りです
紫の大羽織紐(はおりひも) – 会津藩主・松平容保公から武田家に下賜され、惣角が愛用していた絹製の羽織紐。本来家臣が身につけることは禁じられていた由緒あるもので、惣角は明治以降これを着用していました。その由緒ある羽織紐が山本に託されたのです。
差料大刀(さしりょう だいとう) – 武田惣角が帯刀していた一本の刀。山本は惣角よりこの愛刀を譲り受けました。
大東流の印 – 大東流合気柔術の公式印章。惣角は自らの流派を代表する印鑑を山本に託しています。
「大東流總主」の称号 – 惣角は山本に「大東流合気柔術第○代總主(そうしゅ)」の称号を与えました。總主とは大東流の宗主・総領を意味し、山本こそが惣角直伝の正統後継者であることを示す称号です。
「角」「義」の二字を与えた武号 – 惣角の名「惣角」の「角」と、惣角の父・武田惣吉の名「正義(まさよし)」の「義」の字を一字ずつ許され、山本は武名(武人としての名)を「角義」と名乗りました。これは師の名から一字をもらう大変な名誉であり、山本が末弟でありながら非常に高い地位を認められていたことが分かります。
このように山本角義は、惣角から直接あらゆる形で信任を示された継承者でした。惣角が遺した羽織紐と大刀を携え、「大東流總主 角義」の名を許された姿は、まさに正統伝承者にふさわしい重みを帯びています
合気之術三法とその秘伝
惣角が山本に授けたものは物品や称号だけではありません。その最も重要な中身こそ、大東流における合気之術の秘伝でした。伝承によれば、武田惣角が生涯で指導した延べ3万余名の門弟の中で、合気之術と真剣術の真髄を唯一授けられたのが山本角義であったとされています。惣角直伝の合気之術三法は以下の3つから成り立っています。
小手之合気(こてのあいき) – 相手の腕や小手(こて、前腕部)に作用する合気の術。関節や筋を極めるだけでなく、相手の力の流れを断つ高度な技法です。
体之合気(たいのあいき) – 相手の身体全体のバランスに作用する合気の術。体捌きと崩しの極意によって、力に頼らず相手を制する技法です。
氣之合気(きのあいき) – 相手の氣(精神・呼吸・重心)に作用する合気の術。いわゆる「気合」や「気迫」といった目に見えない要素で相手を制御する、合気柔術の神髄ともいえる技法です。
これら三法は単なる形だけの技ではなく、実際に技が**「掛かるかどうか」**を重視する実践的な稽古体系によって裏付けられています。演武用の型をなぞるのではなく、一つひとつの技の成否を明確に検証する厳格な稽古を通じて鍛錬される点に大きな特徴があります。この合気之術三法を極めることで、相手のいかなる攻撃にも無理なく対応できる高度な護身術が成立するのです。
3万門弟中唯一の正統継承者 惣角の死と最後の弟子として


武田惣角の門下には、大東流合気柔術を学んだ者が延べ3万人以上いたといわれます。その中には合気道開祖の植芝盛平をはじめ、佐川幸義、堀川幸道、武田時宗(惣角の嫡子)など後にそれぞれの武道流派を興した名だたる武術家たちも含まれていました。しかし、合気之術の極意を武田惣角から直接託されたのは、門弟3万余名の中でも山本角義ただ一人だと伝えられるのです。事実、惣角が青森で急逝した際、最期の瞬間に立ち会い「死に水」を取ったのも山本角義であり、師の人生最期を看取った唯一の人物でした。これは惣角が最も信頼を寄せ、後継を託していたのが山本であったことの何よりの証といえるでしょう。
惣角亡き後、山本角義はその教えと技を一身に背負い、大東流合気柔術の正統を守り伝える責務を担いました。戦後、世間が混乱する中でも彼は修行を続け、やがて北海道苫小牧市に自宅兼道場「柔進館」を開設して大東流合気柔術(山本派)の指導を始めます。さらに居合術では、惣角から学んだ会津小野派一刀流や神道系剣術の理合を統合し、10年以上の歳月をかけて無限神刀流居合術という新たな剣術流派を創始しました。これらの偉業は、山本角義が単に惣角の技を受け継いだだけでなく、自ら研鑽して発展させた卓越した武術家であったことを示しています。
現在の継承
山本角義先生が遺した大東流合気柔術の技と精神は、弟子たちによって現代に受け継がれています。昭和57年(1982年)に67歳で亡くなるまで、山本は北海道を拠点に後進の指導に尽力しました。主な直弟子には、古武道研究家としても知られる佐藤金兵衛氏、山本から三流派すべて(大東流合気柔術・無限神刀流居合術・小野派一刀流剣術)を継承した長尾全祐氏、その他須藤丈氏、橋本史郎氏、岩隈勉氏、鵜沢勝彦氏らがいます。中でも長尾全祐師範は山本門下から大東流山本派を継承し、「神刀柔進会」を率いて現在も後進の指導に当たっており、山本角義派の宗家的立場にあります。これらの弟子たちによって、山本が惣角から受け継いだ合気と剣の技法は途切れることなく守られ、全国各地で稽古が続けられています