「それって、どういう意味ですか?」と聞きたくなるとき――合氣道の稽古で見えてきた“特性”と向き合う力
言葉の曖昧さに強い違和感が出る。確認したくなる。そんな感覚が、子どもの稽古や親子参加の場面でどう見えるのか。
合氣道「楽心館」の稽古の一場面から、できる・できないを超えた成長の捉え方を整理します。
導入|稽古場でふと重なった感覚
稽古をしていると、ときどき自分自身のことを考えさせられる瞬間がある。
それは、子どもたちが何かにつまずいたときの表情を見たときだ。
前方回転受け身の稽古。流れの中で「やってみよう」と声をかけると、多くの子は見よう見まねで動き出す。
けれど、ある子はその場で止まる。
身体は前にある。でも、動き出す前に、こちらを見てこう聞く。
「それって、どういう意味ですか?」
私はその言葉を聞いたとき、「これは“できない”ではないな」と感じた。
そこには、ふざけや怠慢では説明できない、別の種類の真剣さがあった。
事実の描写|止まる子どもたちの姿
止まる子どもは、たいてい真剣だ。ふざけているわけでも、やる気がないわけでもない。
- どこから回るのか
- 頭はどこに置くのか
- 今やるべきことは何なのか
それが自分の中で整理できるまで、身体が動かない。
周囲の大人はつい言ってしまう。
「見て覚えなさい」
「考えすぎだよ」
「とりあえずやってみよう」
でも、その子の身体は正直だ。分からないまま動くことに、強い抵抗を示している。
それは、抗う身体というよりも、納得できないまま進まない身体だ。
楽心館の稽古では、相手を抑えられた状態(抗う身体)からでも崩れずに動ける感覚を育てていく。
だからこそ「分からない」「怖い」「止まる」という反応は、隠すものではなく、技の成立条件を探す手がかりになる。
気づき|自分自身に重なったこと
実は私自身も、昔から同じ感覚を持っている。
言葉の使い方が曖昧だと、気になる。主語や条件が抜けている説明を、そのまま受け取れない。
「だいたい」「いい感じで」「察して」という表現に、落ち着かなさを覚える。
そのたびに心の中で、こう思ってしまう。
「それは、何を指しているのだろう」
「どこまでが決まっていて、どこからが自由なのだろう」
最近では、「自分はASD的な特性があるのかもしれない」と考えるようにもなった。
ただ、稽古場で子どもたちを見ていると、それが欠点として扱われることの方が、おかしいのではないかと感じるようになった。
合氣道は、勢いで“やらせる”よりも、身体感覚を丁寧に揃えていく稽古だ。
剣術の理合いに通じる「中心軸」を探すときも同じで、曖昧なまま進むより、一度止まって確かめた方が、結果として早いことが多い。
稽古場で確かめ続けている視点
子どもの習い事や、親子で通える習い事を考えるとき、私たちはつい「できたか」「上手くいったか」を見てしまう。
けれど稽古を見ていると、別の事実もはっきり見えてくる。
その日のうちに前方回転受け身がすんなりできた子よりも、
途中で止まり、何度も確認しながら、最後まで場に残った子の方が、
次の稽古で動きが安定することが少なくない。
理由はシンプルで、「勢い」ではなく「理解」と「身体の配置」で動いているからだ。
そしてこのプロセスは、武道の技術以前に、非認知能力そのものでもある。
- 分からないと言える
- 怖いと感じられる
- 涙と向き合いながら、それでも場に居続ける
- 叱られない環境で、自分の感覚を雑に扱わない
「すぐに動けない子」「確認したがる子」「言葉にこだわる子」。
その姿は“遅れ”ではなく、精度を上げようとする姿として現れていることがある。
叱らない教育とは、放置することではない。
私はむしろ、向き合う時間を奪わないことだと思っている。
合氣道の稽古は、その練習が自然にできる場になりやすい。
答えを急がないための、小さな問い
合氣道は、技を覚える場所であると同時に、身体感覚を通して自分を知る場でもある。
剣術の理合いに通じる「中心軸」を探す稽古は、心の軸を探す稽古にもなる。
もしあなたや、あなたの子どもが「それって、どういう意味ですか?」と立ち止まることがあったら、
それは“遅れている”のではなく、深く踏み込もうとしている瞬間かもしれない。
ここで、稽古場でも家庭でも使える問いを一つだけ残したい。
できないことに出会ったとき、私たちは「早く先へ」を優先していないだろうか。
それとも、立ち止まって確かめる時間を、守れているだろうか。
泣きながらも、首を縦に振る。その瞬間から、稽古はもう始まっている。
続けることは、才能ではなく、環境と関わりで育つ。
そしてその環境は、意外と小さな言葉の選び方で変わる。


