戦後八十年に寄せて――武道家としての歴史談話

私は武道を通じて、日本の歴史と伝統を後世に伝える使命を、楽心館に担わせています。
その歴史認識は、決して「純粋日本人主義」や「排外主義」ではありません。
我が国は古来より、食料・肥料・地下資源、そして安全保障の多くの側面において、他国との交易に依存してきました。
日本が生き残る道は、国際協調の中にこそあります。
ゆえに、今こそ私たちは「戦争の時代」をどのように受け止め、どのように未来へ伝えるかを考えなければなりません。

一 先の大戦への認識

私は、「大東亜共栄圏すなわち有色人種の解放・アジア諸国独立のための聖戦であった」とする見解とは一線を画します。
大日本帝国の誤りは、人口拡大を背景に、朝鮮や中国大陸を「内地の延長」として移民を進めたことにありました。
明治から大正にかけて、保健衛生の改善によって乳幼児死亡率が大きく下がり、明治維新から大正期にかけて日本の人口は約二倍に膨張しました。
農村では貧困が深刻化し、多くの農民が生きるために海外へ渡らざるを得ませんでした。
やがて「邦人保護」「移民地防衛」を名目に軍隊が派遣され、現地の人々との摩擦や紛争が生じます。
こうした人口圧力による膨張は、日本だけでなく当時のアメリカ・アフリカ・ヨーロッパにも見られた“人口侵略”の一形態であり、それを国家戦略として制度化したものが帝国主義でした。
にもかかわらず、後年日本はそれを「大東亜共栄圏」という理念で包み込み、帝国の拡張を正当化してしまった。
ここに、国家理念と現実との深い乖離がありました。

二 国際環境と誤導

一方で、当時の国際環境もまた、日本を誤った方向へ導いた大きな要因となりました。
アメリカは日露戦争における日本支援の「報償」として満洲の経済利権を求めましたが、日本がこれを拒否したことで両国関係は急速に冷え込みました。
同時に、ドイツとソ連の対立が激化し、スターリンは二正面作戦を避けるために日ソ不可侵条約を結び、日本を中国大陸の戦火に引き込みました。
その結果、ソ連は背後を気にせずヨーロッパでの対独戦に集中し、勢力を拡張することができたのです。
さらに、日本は長年の同盟国であったイギリスとの関係維持を怠り、日英同盟の解消によって国際的孤立を深めました。
そしてアメリカでは、共産主義的傾向を持つルーズベルト政権が対日包囲網を強化し、ハル・ノートをもって石油輸出を停止。
日本はエネルギーを断たれ、東南アジア――とくにインドネシアの油田地帯――に進出せざるを得ない状況へと追い込まれました。

三 御前会議と開戦の決断

昭和天皇は開戦に強い逡巡を示されていました。
しかし、昭和16年12月1日の御前会議で、陸軍大臣・東條英機の意見を容れ、ついに開戦を決断されます。
会議が終わった後、天皇は側近の木戸幸一に小声でこう語られたと記録されています。
「開戦を決するに忍びざるものあり。
しかし国の形を保つため、やむを得ざるなり。」
また、この夜、天皇は「我が身をもって戦争を止めることができぬのか」と述懐されたとも伝えられています。
つまり、この開戦は国家の流れに抗しきれぬ中での、痛恨の決断であったのです。
御前会議から一週間後の1941年12月8日、真珠湾攻撃とマレー上陸作戦が実行されました。
午前11時には「宣戦の詔書」が発せられます。
昭和天皇は詔書に記された「今ヤ耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ」という文言を削除するよう求められたといわれます。
その理由は、「この戦争を正義の戦いと誤解させてはならない」というご懸念によるものでした。

四 歴史から学ぶもの

この決断は、理念と現実の板挟みの中での苦渋の選択だったのでしょう。
私たちは、先の大戦を「正義の戦い」と誤解してはなりません。
この歴史を、単なる過去の過ちとしてではなく、
「理念なき膨張がいかに国家を誤らせるか」
を示す深い教訓として学ばねばなりません。
武道とは、本来、力による支配ではなく、力を制御する智慧を養う道です。
合氣の極意歌にも「和して同ぜず、平らかに勝つ」とあります。
戦いの中にあっても心を失わず、調和の理をもって立つ――それこそが武の道の本質です。

結びに

戦後八十年を迎えた今、楽心館はその精神を体現し、
「和の心」と「真の協調」をもって、次の時代へ日本の道を継いでいきたいと願います。
過去に学び、現実を見据え、そして未来を育てる。
その歩みこそ、武道家が果たすべき責任であり、私がこの談話を記す理由です。
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