幼い修行者を紹介します。純真無垢な姿に、心を打たれました。
しょうご君は四歳。三歳の時にお母さんとともに入門しました。 去る九月、初めて子供審査会へ参加しましたが、 残念ながら落第でした。
お母さんに感想を伺うと、「思いのほか、できませんでした」 とのこと。
しょうご君は四歳。三歳の時にお母さんとともに入門しました。
お母さんに感想を伺うと、「思いのほか、できませんでした」
年齢からすれば、まだ稽古に“慣れる”段階。
日本の伝統的な稽古環境では、挨拶や姿勢、 柔らかな体の使い方を通して、心身の土台を築くことが目的です。
私は「先生をよく見て、まねするんだよ?」と声をかけながら、 お母さんと組んで技を示しました。
日本の伝統的な稽古環境では、挨拶や姿勢、
私は「先生をよく見て、まねするんだよ?」と声をかけながら、
正面打ち一教・入り身を説明している最中、私が咳をして「 失礼しました」と言葉を添え、肘抑えに移りました。
その後、しょうご君が同じようにお母さんの肩を返すと――
彼もまた「ゴホン!」とせき込み、「失礼しました」 と言ってから肘抑えに移ったのです。
その後、しょうご君が同じようにお母さんの肩を返すと――
彼もまた「ゴホン!」とせき込み、「失礼しました」
何の悪気もなく、ただ見たままをそのまま真似した。
「学ぶ」の語源が「真似ぶ」であるように、 しょうご君の行為は純粋な模倣そのものでした。
どこを真似すべきか、どこを省くべきか――そんな分別は、 まだありません。
「学ぶ」の語源が「真似ぶ」であるように、
どこを真似すべきか、どこを省くべきか――そんな分別は、
私たちは日々、「好き・嫌い」「美しい・醜い」「損・得」など、 無数の分別を積み重ねて世界を見ています。
それは生きる上で必要な知恵である一方、仏教では迷い(煩悩) の根とも言われます。
それは生きる上で必要な知恵である一方、仏教では迷い(煩悩)
しかし、しょうご君の無垢な姿には、 そうした判断や思考を超えた何かがありました。
善悪や美醜、有無や生死といった二元の枠を離れ、ただそのままを 見ている心――。
それはまさに仏教でいう「無分別智(むふんべつち)」、 すなわち「般若の智慧」の一端です。
善悪や美醜、有無や生死といった二元の枠を離れ、ただそのままを
それはまさに仏教でいう「無分別智(むふんべつち)」、
『般若心経』にある「色即是空、空即是色」。
形あるものは空であり、空なるものは形でもある――。
この教えが示すのは、区別を超えた認識、無分別の心です。
私たちの思考が生み出す善悪や美醜は、実は「空」、 すなわち固定された実体ではないのです。
形あるものは空であり、空なるものは形でもある――。
この教えが示すのは、区別を超えた認識、無分別の心です。
私たちの思考が生み出す善悪や美醜は、実は「空」、
子供クラスを指導していると、時折ハッとさせられます。
しょうご君の一挙一動に、 私たちがかつて持っていた無垢な心が映っている。
忘れていた原初の何かを、そっと思い出させてくれるのです。
しょうご君の一挙一動に、
忘れていた原初の何かを、そっと思い出させてくれるのです。
剣術や合氣の稽古においても、「相手の動きを判断せず、 ただ感じ、応じる」――。
これもまた、無分別の現れです。
しょうご君の行為は、その道の深い目標を、 静かに指し示していました。
これもまた、無分別の現れです。
しょうご君の行為は、その道の深い目標を、
ありがとうございました。
