合気道2年目の壁とブレークスルー
楽心館合気道2年目の冬。
うまく掛かったり、掛からなかったり・・
(わかった!)と思った次の瞬間、また糸口が消えている・・
「二教」のカベの前で、また、立ちつくしているこの頃。
先輩からの指摘は禅問答のように
- 「ほら、押してる」
- 「ほら、力が入りすぎる」
- 「手はほわっと」
- 「ほら、スピードでやってる」
- 「ほら、脇が空いてる」
- 「ほら、肩が下がってる」
- 「まだ、つながってない」
- 「力じゃなく、気を通して」
(気を通すっていったって・・)
先輩に指摘されるほど、「禅問答」状態で、思考停止▽※×・・
真犯人が見つかったと思ったら、また、見えなくなってしまう。
よくできた推理小説では、まま、あるケースだけど。
先輩の答えに学ぶ、技の体得とは
先輩に伺う。
「先輩は、二教、どのへんで、身についたんですか?」
「うむ・・数年、何百回か、何千回かやってるうち、ひょんなことで、かな」
(う~む、数年か・・)
子供の頃、補助輪なしに自転車に乗れるようになった時みたいだな。
乗れてしまえば、もう、忘れることがないもんな。
癪だが、やみつきになる。
量が質に変わる学びの瞬間
化学なんかで、(量の質的転換)ということをいう。
A物質+B物質=AB。
ところが、この操作を積み重ねていくと、ある時点で
ABでなく、A+BがCに変質する瞬間があるそうだ!
どうやら、人の学びもそうらしい。
理屈で理解しようとしても、「その瞬間」はやってこない。
ひたすら、積み重ねていくと、必ず、どこかの時点で、質的に飛躍する時点が(結果的に)やってくる。
ブレークスルーは理屈ではなく実感で
「門前の小僧習わぬ経を読む」ってことか・・
理解できないことでも、重ねていくうちに、小僧はどこかの時点で、
(お経の言ってる意味はこれだったんだ!)
と腑に落ちる時を迎える。
それが、いわゆる「ブレークスルー」ってことかもしれないな。
本当の学びは目的や利益を超える
目標が見えていて、理解できて、手法も手引きしてもらって・・
そんな学習はたいしたことはないのかもしれない。
教育がサービス業なんていわれる昨今、
「先生、それをウチの子が学ぶと、就職するときどんなメリットがあるんですか?」
的な親が多いという。
子どもまで
(それ習って、どんな得があるの?)
なんて、平気で口にするようになる。
その子は残念ながら永遠にブレークスルーすることはないんだろう。
推理小説のような合気道の学び
積み重ねていって、ある日突然、腑に落ちる瞬間を迎える。
合気道はそんな推理小説のような面白みがある。
(来年のどこかで、あまいかな・・、
二教のそんな瞬間を迎えたいもの)
と、熱燗で一杯。