2011-12-04
「なぜその年で合気道なんだよ?」
たいがいの中高年はそう思いますよね。なにが面白くてさ……と。
周囲のそんな声をよそに楽心館の門をたたいたのは、還暦目前の昨年春。
健康のためとか、体力づくり、護身のため……なんてことは考えず、「何となく、合気道が気になっていて……」という、説得力のないノーテンキな動機でした(むろん、時間が多少自由になったことがある)。今から思えば、「何となく気にかかる」というある種の感覚は間違っていなかったと思う。
さすがに、この髪の薄い前記高齢者を前にすると、普通の道場は「稽古中に脳卒中でも起こされては困る」と腰を引いてしまうらしく、「シニアや女性の入門も歓迎する道場」の噂を頼りに、おそるおそる楽心館中野道場の稽古をのぞかせていただいたのがきっかけでした。
稽古はさぞやバタンバタン投げ飛ばされているかと思いきや……私同様、還暦から始めて黒帯になったという先達や女性もいて、予想よりは粛々として穏やかな稽古風景を拝見。これなら私も足手まといにならずについていけるかな……と目を瞑り、清水の舞台から飛び降りたしだい。
とはいえ、酒・タバコにきっちり「律儀」を通してきた私の体は、当初、受身ででんぐり返っただけで目の前に星がちらつく状態からのスタートでした。
それでもどうにかこうにか慣れるものですね。以来1年半、私にとって合気道は、生活に不可欠な時間といっても過言ではありません。理由は三つあります。
1. 師を持つことの喜び
当たり前ですが、実社会ではたいがい教導する側に立たされる中高年には新鮮なマインドセットになります。稽古の間はひたすら先生の指導に自分を預け、頭を空っぽにしてついていくのみ。小学生が先生の話を白紙のアタマに刻んでいくのと変わりありません。
むしろ、この歳だからこそ、頭を空っぽにできる貴重な時間です。
2. 身体で考える時間を創れる
世の中どこもかしこも情報ツールで覆われると、頭で考えることばかりが肥大し、どうしても、身体の声に耳を貸せなくなります。心身のバランスが無意識のうちに極端に頭に偏っているのです。
稽古で最初に気付くことは、頭で考える自分の身体と実際の身体の動きに大きなズレのあることです。手の動き、足さばき一つとっても、「ありゃりゃ」の連続。稽古はいわば、楽器のチューニングのようなもの。等身大の世界を身体で実感するにはもってこいです。
稽古後のさっぱりとした心身で家路につくと、ビールの旨さもまた格別だし……
3. 合気道の高度な汎用性に気づいた
これが一番大きいのですが、合気道が稽古場の身体運用だけでなく、人間関係の生じるところすべからくに通じる、“高度な汎用性”があることを知ったことでした。
一言で言えば、「人間関係を術理として身につけ、相手の心を動かす技」であり、今流行の言葉で言うと、「人とつながる」技の集大成だったのです。
これは、良くも悪くも人生経験を重ねてきた中高年にこそ、ピンとくることです。人間関係の数々の頓挫、失敗は、「つながり方」の術理にあまりに無知だったのだ…