できない自分に出会う稽古|一般成人の合氣道とユマニチュードというまなざし(楽心館)
その日の稽古で、ある一般成人の方が動きを止めました。
年齢は30代後半。運動経験もあり、仕事もきちんとこなしている。
いわゆる「普通にできる人」です。
しかし、技の途中で身体が固まりました。
前に進めない。力を抜こうとしても抜けない。
しばらく沈黙が流れました。
「頭ではわかってるんですけど……」
そう言って、視線を落としました。
“難しい技”ではないのに、身体が動かない
技そのものは、難しいものではありません。
むしろ基本的な動きです。
けれど、相手に軽く抑えられただけで、身体が反応しなくなる。
呼吸が浅くなり、肩が上がり、中心軸が消える。
まるで身体が「これ以上は進むな」と言っているようでした。
私はすぐに次の技へは進みませんでした。
できる/できないの評価もしない。
ただ、その人の立ち方と目線、呼吸を観ました。
しばらくして、その人はこう言いました。
「できないと、焦るんですね。こんな感覚、久しぶりです」
大人が苦手なのは「できない」より「できない自分」
ここで私は、ユマニチュードケアの本に触れていたときの感覚を思い出しました。
『
「ユマニチュード」という革命: なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか
』(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ/本田美和子)です。
ユマニチュードは、「何かをさせる技術」ではなく、
相手の感情を置き去りにしない関わりを大切にします。
急がせない。否定しない。いまの状態を観る。
その姿勢は、武道の稽古にもそのまま通じると思っています。
一般成人が稽古でつまずくのは、身体能力の不足というより、
「できない自分」に出会うことへの不慣れさに近い。
社会の中では、できるふり、わかっているふり、失敗しない立ち回りが求められる。
その習慣が強いほど、稽古場で“素の反応”が出た瞬間に、心と身体が分断されます。
抗う身体は、敵ではない
楽心館の合氣道では、相手の力に抗う身体を、ただ「悪い癖」として片づけません。
抗いは、身体が自分を守ろうとする反応でもあるからです。
まず必要なのは、抗っている自分を雑に扱わないこと。
いまの緊張、いまの呼吸、いまの目線。
そこを観るところからしか、身体感覚は育ちません。
剣術の理合いでも同じです。
力で押し切ろうとした瞬間、軸は抜け、動きは重くなる。
逆に、中心が立ち、呼吸が通ると、動きは軽くなる。
「うまくやる」の前に、「いまの身体の事実」を受け取れるかどうかが分かれ目になります。
できないまま立つ、という稽古
合氣道の稽古は、若返るためのものでも、強くなるためだけのものでもありません。
自分を雑に扱わなくなる稽古だと、私は思います。
できないまま立つ。
逃げずに、その感覚と一緒にいる。
それだけで、呼吸が戻り、肩が落ち、少しずつ中心軸が立ってきます。
そして、技の形より先に、「自分の扱い方」が変わっていく。
そこから先は、速いです。
あなたは最近、「できない自分」に出会っていますか。
その瞬間を避けずに稽古の中に置けたとき、
合氣道は生活の中の姿勢や人との距離感まで、静かに変えていきます。
