質問がうまい人が、対話上手だと思っていた
問いを投げれば相手は考え、考えれば対話は深まる。少なくとも、私はそう信じてきました。ところが最近、ある人と話していて違和感を覚えました。
質問を深めれば深めるほど、その人の表情は不快そうになり、感情的になっていく。
私はただ「どんな考えなのかを知りたい」だけだったのに、後から聞いた言葉はこうでした。
「否定されている気がした」「自分の意見しか言わない」「会話がつまらない」。
さらに決定的だったのは、「お前は本当に相手を楽しませようとしてない」と言われたことでした。
正直、戸惑いました。
自分の意見を押し付けているつもりはなかったし、討論のつもりですらなかった。
「こういう考え方の人もいるよね」と、ただ視点を並べたかっただけなのに、相手には否定として届いていたようです。
勉強会で聞いた「対話がうまい人」の定義
そんなことを考えていた矢先、とある勉強会のグループワークで「対話がうまい人とは?」というテーマが出ました。
私は反射的に「質問がうまい人」と答えました。
すると別の参加者が、少し考えてからこう言いました。
「自分の意見をあまり言わず、相手の話をすべて聞き切ってから、少しだけ自分の考えを言える人」。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわっとしました。
問いを投げることばかり考えていて、相手が話し終わるまで待つという発想が、私には決定的に欠けていたのかもしれないと思ったのです。
合氣道の稽古でも起きる、問いかけの圧
合氣道の稽古でも、似たことがあります。
子どもが前方回転受け身で止まったとき、理由を聞こうとすればするほど、言葉が出なくなる。
抗う身体に対して理屈を重ねるほど、身体は固まっていく。
問いは、必ずしも相手を開くものではありません。
場合によっては、相手を黙らせてしまう。
子どもの習い事は、「できた/できない」だけで終わらないはずなのに、
大人の問いかけが、子どもにとって「答えなければいけない圧」になることがある。
その圧に耐えきれず、涙が出る場面もあります。
問いの深さより、余白
いまの私の仮説はこうです。
対話がうまい人とは、鋭い質問で相手を導く人ではなく、
相手がそのままでいられる余白をつくれる人なのかもしれない。
泣くことも、立ち止まることも、逃げではない。
続けること、失敗できる場に身を置くこと、感情と向き合うこと。
そうしたものは、点数や結果では測れないけれど、確かに育っていきます。
最後に
「お前は本当に相手を楽しませようとしてない」
この言葉は、今も私の中に残っています。
あなたは、会話の中で相手を楽しませようとしていますか。
それとも、正しさや深さを優先していないでしょうか。
最近の私は、その問いを、自分自身に向けています。
