(一社)氣と丹田の合氣道会 楽心館

言葉は合気道と同じ──日常に活きる脱力とつながりの技法

以前にも申し上げたと思うが、合気道の術理が発揮されるのは道場だけではない。

口から出る言葉、耳に入る言葉で、私たちは毎日、合気道をしている。

言葉は「手足」と変わらない。相手つながらなければ技に入れないように、言葉のやりとりも、相手の耳に届かなくてははじまらない。

では、メディアに氾濫するような常套句で能弁雄弁にしゃべれば相手にうまくつながるのか。どうもそうではない。

心に届く言葉、心を傷つける言葉がある、紙一重なんだよね。

言葉を生業にしてきた私は、言葉の可能性とともに、その恐ろしさや虚しさに、かなり懲りている。
(言葉も筋肉を鍛えてもだめなんです)

稽古で身に染みている「脱力」(緩み)。端的な技が「二教」、と先輩から重ね重ね聞かされる。技の成否はひとえに、(力を入れないこと)。

当初言われたときは、ずいぶん面食らった。
(手首から相手の肩、軸とつながった状態。相手の肩を意識して軸を崩す)

・・といわれても、
(力を入れなくては、動作にならないのでは・・)

??? こんな経験を繰り返してきて少しずつその意味がわかりはじめてきた。

二教の術理はさておき、日頃の人間関係の中でも、まったく同じなんだとつくづく。

口から出る言葉の力加減や、掛け方がコミュニケーションを左右する。

うまく掛かった状態というのは、(言葉が相手の心に届く)こと。

技がかかれば、相手の胸襟を開かせ、一を言うだけで十わかってもらえる。

私の友人で、長年連れ添ってきた夫婦だったが、無口な夫に妻は日頃から

「夫が何を考えているかわからない」「私のことなんかまるで思ってない」と普段から愚痴をこぼすことが多かった。

ところが、がんを患った夫が死の前、妻にこう漏らしたという。

「お前と結婚して本当によかった。私が人並みに生きてこれたのは君のおかげだった。照れくさくって言えなかったけど、とても感謝している」

・・夫亡きあと、その一言は妻の人生を温かく包むことになった。

最後の大技は、夫の心底から発した言葉だったに違いない。

逆に、「その一言」で離婚した夫婦は枚挙にいとまがない。

私など始終言ってから(しまった)を繰り返している。

言わずもがなの言葉を口にして悔やむことたびたび・・

相手の言葉に(つい)腹を立てたり、売り言葉に買い言葉になって、(つい)・・

(歳をとったって、それだけじゃ人間できないもんですね)

とりわけ男と女の場合は予想がつかないことが多い。

なぜか、神様は磁石のプラスとマイナスのように「異なるゆえに補完しあえる」関係に形作ったらしい。

根本的に感じ方の異なる者同士が毎日顔を合わせ、合気道の取りと受けになってるんです。

最近つくづく思うのは、伝えなければならない重要な言葉、指摘は、・・「穏やかにささやく(できれば笑顔で)」

そして、普段から何かにつけて「ほめる」ことの重さだ。

「@@@いいね」

髪型でも服でも、振る舞いでも、ちょっとしたことでも気付いたら、「ほめる」。

「また、うまいこと言ったって、何も出ないわよ」といいつつも、相手は間違いなく、距離を縮めてきて、心をオープンにしてくれる。

それが、(つながった状態)なんだね。

間違っても、声高にけなしてはいけない。いくら正論でもだめ。

もう、相手は警戒して当分心を開いてはくれない。再び距離を縮めるのは至難の技だ。

二教で(ぎゅっ)と力を入れるのと同じ、決して掛からない。下手すれば(パワハラ)と言われるのがオチ。

子供でもそうだ。電車の中などで、幼児にさえ理屈で間違いを指摘する大人が増え、傍で聴いていて、(そんなに叱ったって、逆効果だろうに)と思うことが多い。

叱るのが要らないとは思わないが、正論であれ、相手の(間違いさがし)と批判だけでは、合気道の稽古で(力任せにふるう)のと同じなんだ・・としみじみ思うこの頃。

とはいえ・・相手をほめることは、簡単そうに思えて、案外難しい。

わざとらしく聞こえたり、ただの世辞にしか聞こえないのでは意味がない。

結局、ほめるために褒める、単なるテクニックではなく、日頃から相手の人格を尊重し、違いを認める姿勢が肝心。

合気道でいえば、(自分の体軸、足腰)に相当するのかもしれない。

異性に声かけるときは 二教、二教・・と言い聞かせるシニアライフです。

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