「気持ちを通す」ということ|合氣の技における“つながり”の感覚を求めて
稽古中にふと訪れた、静かな感覚。その記録。
不思議な感覚との出会い
月曜日、二宮さんとの稽古のなかで、ひとつの不思議な感覚に触れた。
「気持ちを通すんだ」
そう言われたとき、ふと、身体の奥に何かが響いた。
「気持ちってなんですか?」
そんな問いが生まれた。
気持ちとは何か
パッションではない。
「やるぞ!」という意志の力でもない。
ただ、相手に通っている。
それ以上でも、それ以下でもない。
押す必要も、踏ん張る必要もない。
ウイニングランのようなつながり
動き出すときには、すでに相手とつながっている。
例えるなら、ウイニングラン。
スタートと同時にゴールが見えている状態。
戻ってしまう感覚、気づきからの再始動
それは以前から私の中にあった感覚だった。
しかし、時が経つと、いつの間にかまた「破壊するような動き」に戻ってしまっていた。
ゼロから積み上げたはずが、またゼロに戻る。
それでも、気づいたときにはまた始められる。
肘肩の感覚と“つながり”
肘肩を柔らかくし、相手とつながる。
「つながろう」としてはいけない。
つながろうとする意図そのものが、相手に伝わってしまう。
日常動作と合氣の一致
稽古の動きは、日常動作と変わらない。
つながろうと“する”ことは、むしろ揺らぎであり、
相手に「来るタイミング」を悟らせてしまう。
技の成立とスピードの本質
強く求めてはいけない。
ただ、ただ。
0から1を相手に掴ませない。
だからといって徐々に加速するのでもない。
最初から「とうっ!」という速度で、そのまま動く。
それが自然な日常動作であるなら、
そこに「はじめ」があり、「過程」があり、「終わり」がある。
八相の切り落としの感覚
たとえば、八相の切り落としもそうだ。
相手が打ってくるとき、そこに「立ち向かう」必要はない。
すでに通っている。
剣をそこに入れ、そのまま落とすだけ。
力を使わないということ
自分が押す、引く、抑える……
そんな動きは、本当に必要ない。
必要なのは、気持ちを通し続けること。
ただし、それは“気合の入った集中”ではない。
不動無双|波の立たない世界
それは、「不動無双」
何もない世界。
波ひとつ立てない感覚。