(一社)氣と丹田の合氣道会 楽心館

「教えること」と「問いかけること」——合氣道の子ども指導で気づいたこと

「教えること」と「問いかけること」——合氣道の子ども指導で気づいたこと

「子どもたちに合氣道を教えています」と口にすると、少しだけおこがましいような気持ちになることがある。

私はまだ、「教える」ということに確信が持てない。
確かに技の名前を教え、動きを示し、形を繰り返すことはできる。
けれど、それは“教える”ということなのだろうか?

最近、そんな疑問が胸の奥に居座っている。

技を通して「正解」を与えるのではなく、「感覚」に出会わせたい

私たちが子どもに何かを教えるとき、つい「答え」を先に与えたくなります。
でも、合氣道は答えのある世界ではありません。

たとえば、ある技がうまくいかないとき。
「こう動いて」「こう崩して」と説明することは簡単です。
でも、それでは子どもは“言われた通り”に動くだけになってしまう。

大切なのは、なぜ崩れるのか?なぜ力を使ってはいけないのか?
そういった問いを、自分の身体の中で感じ、考えていくことです。

それは、単なる武道の動作を超えて、
自分の身体と心に対する興味や感受性を育てる時間でもあるのです。

言葉を投げれば投げるほど、届かなくなっていく感覚。
それでもなお、教えようとしてしまう自分がいる。

 

教えるとは、きっと奪うことではない。
けれど、過剰な教えは、子どもたちの感受性から“気づく機会”を奪ってしまうことがある。

センス・オブ・ワンダーと合氣道

ある日、指導を手伝ってくれている方がこう言いました。

「子どもには“センス・オブ・ワンダー”を与えないといけないと思う」

センス・オブ・ワンダー。
それは、「この世界は不思議で満ちている」「わたしの身体って面白い」と感じる感性。
そして、それを“自分の目”で確かめようとする心です。

技が偶然うまくかかった瞬間。
相手に触れた手から伝わる力の流れ。
自分でもわからないような身体の変化。

その“なんだかわからないけどすごい”という感覚が、
子どもたちの心を静かに動かす瞬間です。

私は、そういう瞬間を稽古の中に、そっと仕掛けておきたいと思っています。

教えさせることでしか、生まれない学びがある

最近、試していることがある。

あえて難しい技をやらせる。説明はしない。
放り投げるように、子どもたちに任せてみる。
すると、不思議と動き始める。

自分で考え出す子、隣と相談し始める子、身体の中で“できない”を探り続ける子。

そこには「型どおりに動く子ども」ではなく、
自分の感覚と格闘している“ひとりの人間”がいる。

「守破離」と、子どもたちの稽古

武道には、「守破離(しゅ・は・り)」という学びの段階がある。

まずは
教えられたことを守り、型に忠実に動く段階。
多くの子どもたちはここにいる。私も「教える」ことでこの段階を支える。

けれど、その型の中にある“なぜ?”を感じた瞬間、少しずつに向かっていく。
「本当にこの動きでいいのか?」「もっと楽にできないか?」という疑問が生まれるとき、
身体は教えられた道から、自分の感覚へと一歩足を踏み出しはじめる。

そして、
センス・オブ・ワンダーに心が動いたとき、
その子は少しだけ“離”の合氣道に近づいているのかもしれない。

それはまだ形にならない。
でも確かに、感覚が目覚め、学びが自立し始める兆しがある。

指導に型はいらない。合氣道にも、たぶん。

私は稽古法に決まった型があるとは思っていない。
道具を使ってもいいし、型稽古をしなくてもいい。
静かな稽古でも、にぎやかな遊びの中でも、
その中に「何かを感じる瞬間」があれば、それでいい。

私が「これは合氣道だ」と思えば、それは合氣道になる。
それが傲慢ではなく、“責任”として引き受けられるようになるまでには、
おそらく、ずっと時間がかかるのだと思う。

「教えている」は、きっと仮の言葉にすぎない

「教える」という言葉の正体は、もしかしたら自分の不安を隠すための仮面なのかもしれない。
本当は、ただ一緒にいるだけなのかもしれない。
見守りながら、問いかけながら、ときに放り投げながら、
自分の技でもなく、子どもの正解でもない、“間”のような場所で育まれる何か。

それを私は、合氣道と呼んでいるのかもしれない。

今日もうまくいかない。
でも、問いかけることはやめない。
答えを与えるより、心が動く“余白”を残すことのほうが大切だと、今は思っている。

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