歳時記
8月花火編
初めチョロチョロ
中パッパッ
仕上げは線香花火で
 今日は、幼稚園の頃より約7から8年稽古をしているお友達との花火です。誰ともなく「最後に線香花火を取っておこうね」と。不思議と皆、これが好きだな。
 「わー!綺麗だね。すごいね」と高まった感情も、線香花火を見つめることで、ほどよくクールダウンしていく。火花がスッーと闇に消えてゆく。楽しかった花火遊びも、「もう終わりだよねー」と心の始末ができてゆく。
 お盆には、ご先祖の霊をお迎えする「迎え火」・霊がお返りなるのをお見送りする「送り火」とがある。両親の郷里の農村でも、道から屋敷の入り口まで松明(たいまつ)を二列に並べて焚いた。今風にたとえると、飛行場の進入路を照らす二列のライトのようだった。
 もう40数年も前のことになる、今の人には東京オリンピックの頃と言ったほうが、分かりやすいと思います。土砂崩れで、叔父と叔母を同時に失うという事故がありました。
 迎え火の時は、煌々(こうこう)と松明を焚きました。「こちらへ帰れ!こちらえ帰れ!」と言わんばかりに。送り火の時は、静かに火が落ちるのを待ちました。「どうぞ安心してあちらの国へお返りください」と祈らんばかりに。母に「今、送っているのよ」の言葉も、そのまま信じて聞きました。不思議と目に見えぬ何かが自分の前を通って、天に昇ってゆく実感があるものです。促されて、厳かな気持ちで合掌したものでした。
 線香花火を見ると、あの送り火が落ちて「埋もれ火」になっていく様子と、重なります。私には線香花火に、そんな寂寥感が伴なうのです。
 子供たちは今晩、「美しく楽しかった花火遊びが終わる」寂しさを感じている、そんなことを先ほど書きました。今になって、それを訂正したくなりました。彼らなりに充分人生の寂寥を、感じていると思うのです。いろいろのことを見て、感じている。それを受け入れたり説明ができないだけで、10年・20年・・・・時間が足りないだけだと思いました。
 

 送り火は 遠くならない いつまでも