歳時記

 8月上旬
花守 編
君が代の
安けかりせば
預(かね)てより
身は花守と
なりけむものを
 朝起きると、一日の行程を思い浮かべる。何処と何処へ行く、何時にどうすると。朝食を済ませると、デジカメを持ってほんの数分、家を一周する。そして庭の変化に、自分のありように気づかされる。
 映像は普段踏みにじっていた草、いやむしろ芝生の邪魔になるからと積極的に抜き去っていたもの。そこに突然、花が咲いた。花という形を見せられると、別次元の主張を始めた。
 名も知らぬ庭の花、踏まれても抜かれても屈せず、花咲く生命力の強靭さ。いやそこにあるのは、花の形をした生命そのもの。
 息を止め膝まづいて、シャッターを押した。(今様のデジカメは、シャッターとはいわないのかな)
 そして花の形はさらに言う。「踏みにじって・抜き去っては、お前の生き方そのものではないか?」と。

 
冒頭の歌は維新の志士 平野国臣のもの。

政治の世界で区切りがついたら、ぜひ花守になりたい。
それこそ晴耕雨読の閑居暮らしにふさわしいものだと、ずっと思っていた。


この場合の花とは、芸術全般をさす意味だとも言われる。もちろん平野は、自分が生きながらえることのできない運命にあることは、承知しているのである。それだけに「花守」の言葉が、さらに美しい印象を残す。彼は有職故実のみならず棒術にも秀でていたという。
映像は道場の睡蓮鉢、水草の花。花びらの柔らかさに水面の反射がまぶしい。みているだけで涼しくなる。
 名も知らぬ庭の花・水草。か弱く見えるようでいて、強靭な生命力がそこにある。これは何だろう。
 ダーウィンは進化論で「生物は強いものが生き残るとは限らない、頭がいいものが生き残るでもない。変化したものが生き残る」と、言ったという。
 
 だとするとこんな考え方もできるだろうか?

 か弱いものは、変化しうる。変化したものは、生き残る。強いとか頭がいいとかに関係なく、生き残ったものは強靭である。
 
 か弱く見えて踏みにじられた方は、実は変化する力のある強靭なものであって。踏みにじった方は、実は変化する力のない脆弱なものである。 いくらこんな理屈をこねてみても、自分の慰めには、少しもならない。