歳時記
11月・霜月
  冬の寒さが訪れて、霜が盛んに降りる月。はずであった、本来は。昨今の地球環境の変化は、日本古来の暦の変更も、必要になってきたようです。
  さて最近、しみじみと思い出した話があります。小学生だったか、中学生だったか、毎週月曜日の朝に朝礼があって、校長先生の講話がありました。ある校長が交差点で信号の変わるのを待っていた時に、経験した話です。
  横を見ると、白い杖を持ったお嬢さんが立っていることに気づきました。信号が青に変わった時、校長はその視覚障害者のお嬢さんの手を引いて、横断歩道を渡りました。するとお嬢さんは、言いました。「ありがとうございます。でも今度からこうしたことをなさらないでください。私は自分の力で生きていきたいと思います」と。 この校長の慈悲的な行為と、自らの人生を自ら切り拓こうとする視覚障害者の言葉のやり取りに、人それぞれの感想を持たれたことと思います。 
  しかし私の関心は、別のことにあります。何故何十年の前の話を、私は最近になってしみじみと思い返しているのだろうか?その疑問です。私は指導者として、武道で伸ばす力、拓く才能、そのことに自問自答しているからだと、想像しています。
  打太刀・仕太刀といいます。打太刀:形を行う際に仕太刀に倒される(技を受ける)役の人物を意味する。仕太刀: 形を行う際に仕掛けてくる打太刀を倒す側の技または(技を披露する)人物を意味する。 打太刀は単に倒されるだけでなく、常に一瞬早く動き仕太刀の動作を引き出してやる師匠役。古来、「師とならば 弟子を立てるを 常とせよ 己が強さを 示すべからず」と言われます。では左記の交差点でのやり取りを、この関係から見直して見ましょう。 
  手を引いた校長は、打太刀。「自分の力で生きていきたい」と答えた視覚障害者は、仕太刀。校長は技を仕掛けられ、見事に打太刀の役割りをしています。