禅では、三つの心の大切さを説く。一つ大疑団(だいぎだん)。二つ大信根(だいしんこん)。三つ大勇猛心(だいゆうもうしん)。私は理解していないし、言う資格もない。しかし、感じたことを述べたいと思う。

 最近、FM放送を聞きながら運転をしていた時のこと。ある音楽家が、次のような話をしていた。「私が運転している時、エンジンと風の音だけで充分。音楽は聴かない。なぜなら聞き入ってしまって、前を見ていいられない。バックをする時など音楽を聞くと、ガチャン!だ(ぶつけてしまう意味)

」。私はこの言葉に、多くのことを感じた。というか「エンジンと風の音だけ」という孤独感が、私の心の琴線に触れた。

 私が察するにこの音楽家は、芸術活動に壁を感じ、心を病んでいた。笑い話のようにしていたところをみると、つい最近まで病んでいて、乗り越える端緒を掴んだ可能性もある。ここでいう「心を病んでいた」とは、病気という意味でのものではなく、禅で言う「大疑団」のこと。

 芸道では一言に、「型より入って、型より出でる」という。この「型より入って」を、「形、手順を修める事」のように考えがちである。音楽でいえば高度な技術で、楽譜を表現することだろう。はたしてそうだろうか?そう考える人がはたして、「型より出でる」ことが可能だろうか?それは無理というものだろう。ある何かが、どうしても必要である。ある何か?それこそ禅で説くところの、三つの心であろう。

 形と手順を素直に修めるのは大切なこと。しかし全ての形が意味あるものではない。意味のあるものもあれば、形崩れしているもの、無駄なものもある。無駄なものを除き、形崩れを修正し、法則と理合を残していく。それを実現するための技術と身体の錬りを、再度試みる。これらを弁証法的に繰り替えす。

 疑問をもって無駄を取り除く、信念を持って法則を見出す、勇猛果敢に取り組んで繰り返す。禅で説く三つの心は、合理的でもあり弁証法的でもあるとも感じる。(もちろん純粋に禅的な教えでは、別の意味)こうしたことにこだわって取り組むことは、他からみれば「心を病んでいる」と変わらないものである。しかし健全な「病み」であり「闇」であり「止み」。これなくして「型より出でる」ことは、不可能ではないだろうか?

 自分の歩む過程でも、同様であった。人を見るときも、この視点を忘れてはならないと思う。