演武会にあたって、パンフレット用に原稿を頼まれました。そこで次のようなものを、提出しました。はたして、学生さんの希望するものとは、離れすぎだろうか?

第10回にあたり、思う                             石川智広


 第10回にあたり何を思うか?それは「芽出度くもあり、芽出度くもなし」の一言に終わります。続けることの意味を問うと、そうなってしまうのです。

 以前、僧籍を持つ方の文章に、次のような印象に残る話がありました。概略を紹介します。

「毎朝、門の外を掃除している。すると自転車に乗った人が通り過ぎる。僧侶は「おはようございます」と声をかける。その人はその声を無視して通り過ぎた。来る日も来る日も、同じことを繰り返した。やがて三年ほどたった頃、その人は自転車を止めて降りてきた。そしてその僧侶の手を握り、「申し訳ありませんでした」と泣きながら謝罪した。」

 この自転車の人の心を変えさせたものは、何でしょう?一つは三年という月日の継続の持つ力、これは大きいでしょう。一般論はそうかもしれません。でも私は、まだ何かあるような気がします。

 そもそもこの僧侶は、相手を変えようと気持ちで挨拶し続けたのでしょうか?あるいは「石の上にも三年」よろしく、とにかく何でも三年は続けようと思って、挨拶し続けたのでしょうか?どちらの質問も、答えはNO!であるはずです。

 仏教の言葉に「自利利他」とあります。「真に己を生かす道は、人をも生かす」そんな意味でしょうか?僧侶が門の外を清掃する・人に挨拶をする、これら何のためでもなく真に己を生かす道だからです。自分を変えて高める結果が、周囲に良い力として伝わっていくのです。私は自転車の方の心の変化の原因は、僧侶が人間的に高まっていく姿に、心が解きほぐされたことにあると思うのです。たまたま三年という時期に、その方の心に「ひれぶり」が起きたのでしょう。三年という期間の継続より、僧侶が何のために何をやっていたという質が、大切です。

 さて我々の演武会は第10回を迎えることができる、これは芽出度くもある。しかしこの間に、自分を変え高めるという根本があったのかと問い直していただきたいのです。もちろん何もなかったとは、申しません。しかしあえてここで、「うん、芽出度くもなし!」と思って、初心に帰りましょう。                                                          終




 私はこれまでの自分を、「凛として」などと言うほどの資格はありません。しかし、分からないなりに仮説をたてながら稽古し、どのような人とどのような活動をするか、一貫したイメージを持とうとしてきました。それに外れたことに、できるだけ関わらないだけのこと。それに何と呼ぶかは、人様のご勝手でしょう。

江戸時代末期の儒者、林 述斎は、こう述べています。

小善は大悪に似たり
大善は非情に似たり
目前の気受けなど気にせず
大善実現のために非情に徹せよ