武田惣角先生とは
武田惣角先生とは

惣角の人物像と剣術への想い
昭和16年より内弟子として修行した山本角義先生によれば、武田惣角先生は柔術家ではあるものの、「10年か15年早く生まれていたら剣術家になっていた」と語っていたという。惣角の中には、剣術への強い敬意と想いがあった。
山本角義への継承
山本角義(本名:留吉)は、約3万人に及ぶ門弟の中で最後の愛弟子とされる人物であり、惣角から「お前に総ての武術を伝授する」と言われ、唯一人、合気の秘法と真剣術を受け継いだ。その教えをもとに剣術と大東流の理合を融合させ、無限神刀流居合術を確立した。
会津小野派一刀流と渋谷東馬
会津坂下町 定林寺の山門の写真|渋谷東馬の墓所がある寺院の正面入口
武田惣角が学んだ会津小野派一刀流は、剣術師範であった渋谷東馬より明治2年、会津坂下の養氣館で教授された。渋谷は会津藩医・生江寛隆の三男として1832年に生まれ、明治37年に73歳で没している。東馬は男子のなかった渋谷家に養子として迎えられた。
ただし、渋谷東馬が誰から剣術を学んだかについては記録がなく、師匠は不明とされている。なお、渋谷東馬の墓所は現在、会津坂下町の定林寺に残されている。
渋谷東馬の墓と現代への継承

渋谷家の墓所は定林寺の庫院裏手に位置し、現在も整然と保たれている。精神の継承者である長尾全祐先生は、墓前にて剣術の理合と先人への敬意を込めた祈りを捧げている。
定林寺拝殿(本堂)の写真|渋谷東馬の墓所がある寺院の中核建物
渋谷東馬の墓前で祈る長尾全祐先生|大東流合気柔術・会津小野派剣術の精神的継承者
渋谷東馬を含む渋谷家一族の墓所の写真|会津坂下町 定林寺に現存し、ご子孫は現在東京在住
「渋谷昌甫(東馬)之墓」と刻まれた墓石の接写写真|会津小野派一刀流の剣術師範・渋谷東馬の墓所




会津剣術の実戦性と伝承
会津小野派一刀流は、形式的な型に留まらず、戊辰戦争における実戦経験に基づいた木刀術を特徴とする。惣角はこの実戦剣法を受け継ぎ、山本に「会津は剣では負けなかったが、新式の鉄砲に負けた」と語っている。
黒河内伝五郎と惣角の精神的背景
惣角が養子に入ったとされる黒河内伝五郎は、会津藩随一の武芸者として知られ、「武芸百般」と称される人物であった。50代で眼病を患い失明したが、慶応4年、会津戊辰戦争で重傷を負った長子・百太郎(43歳)を介錯し、自らも次子・百次郎(34歳)と共に自刃して果てた。
黒河内伝五郎は享和2年(1802)に生まれ、66歳でその生涯を終えている。墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。この逸話は、武田惣角の武士的精神の背景として重要な意味を持つ。
直心影流と榊原鍵吉の教伝
武田惣角は明治初年、江戸・車坂にあった道場で榊原鍵吉に師事し、直心影流剣術を学んだ。
榊原鍵吉は幕末期、講武所の剣術教授方として300石を賜り、第14代将軍徳川家茂の剣術指南役を務めた人物である。明治20年には伏見宮邸にて明治天皇の御前で兜割りを披露し、3寸5分の刃を見事に斬り込んだと伝わる。
鍵吉は天保元年(1830)に生まれ、直心影流の達人・男谷信友の道場に13歳で入門し、明治27年に65歳で逝去。墓は東京四谷の西応寺にある。
なお、武田惣角先生は柳生新陰流剣術は学んでいない。
惣角の晩年と死去
惣角は昭和18年4月25日、青森市の旅館伊東方にて逝去。死に水を取ったのは山本角義であり、その精神的・技術的継承を象徴している。惣角の墓は北海道網走市の法竜寺に、山本先生の墓は北海道苫小牧市第2霊園にある。また、山本先生の御霊は青森県平内町の松緑神道大和山に奉られている。