「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり。」
この言葉は中国古典『中庸』にある一句であり、 儒教思想の中心にある
「誠(まこと)」=自然の真実
を示したものです。
私はこの言葉を、日常生活や稽古の中ではどう生きるのか。
庭を歩きながら考えました。
庭を歩きながら考えました。
■ 庭に学ぶ「誠」の二つの側面
庭を巡るとき、私は剪定鋏や草刈り鎌を持っています。
伸びすぎた枝は剪定し、無駄な草は刈る。
その積み重ねによって木は形を保ち、山野草は花をつける。
伸びすぎた枝は剪定し、無駄な草は刈る。
その積み重ねによって木は形を保ち、山野草は花をつける。
しかし手入れを怠れば、庭は笹やセイタカアワダチソウに覆われ、
瞬く間に原野へ戻ってしまいます。
瞬く間に原野へ戻ってしまいます。
この景色を「誠」の考え方に重ねてみると、
- 「庭は自然の一部であり」=誠は天の道
- 「これを庭にするのは人の働き」=人の道
という関係がよくわかります。
自然の力そのものは純粋であり、 放置すれば荒れることも花咲くこともある。
そこで人は、抑えるべきところを抑え、 引き立てるべきところは引き立てる。
この“手入れ”こそが「人の道」なのです。
そこで人は、抑えるべきところを抑え、
この“手入れ”こそが「人の道」なのです。
■ 楽心館における「誠」=靈性心
「誠は天の道」の“誠”とは、楽心館でいう 靈性心 そのものです。
靈性心とは、
- 天から与えられた本来の心の働き
- 人が元々もっている自然の理に沿う心の状態
であり、作為のない、純粋な心の在り方です。
一方で後半の
「これを誠にするは人の道なり」
とは、
「これを誠にするは人の道なり」
とは、
人の心を放置すれば、煩悩や欲望に覆われる。
庭が荒れるように、心も荒れます。
庭が荒れるように、心も荒れます。
だからこそ、
- 抑えるべき煩悩は抑え
- 引き立てるべき情は引き立て
心を整え、本来の靈性心へと“手入れ”していく。
これが人の修行であり、「誠にする」という営みです。
これが人の修行であり、「誠にする」という営みです。
■ 武道の理合における「誠」
武道もまた、自然法則に基づいた学問です。
剣術・柔術の理合に従えば、動きは
剣術・柔術の理合に従えば、動きは
- 無駄がなく
- 嘘がなく
- 虚飾がない
すなわち 「天の道」に一致したもの になります。
剣の理合そのものが、天の道の可視化である。
よって武道における“誠”とは、
- 身体の誤魔化しを捨て
- 作為を手放し
- 自然の法則に一致した動きを求めること
です。
その結果として生まれるものが、
- 剣術の理合
- 抵抗の中でも成立する技
- 丹田の安定
- 氣剣体一致
といった、楽心館が大切にする稽古の核心と完全に一致します。
“誠の身体”であれば、技は自然と生まれ、 争う必要がなくなるのです。
■ 結び
庭を整えるように、心と身体を整えてゆく。
自然(天)の道をそのまま人の中に生かす努力こそが「人の道」 であり、
その積み重ねが靈性心となり、技の源となります。
自然(天)の道をそのまま人の中に生かす努力こそが「人の道」
その積み重ねが靈性心となり、技の源となります。
そよ風に若草が揺れるように、心身を使えるようにしましょうね。
誠とは、天地自然と人とをつなぐ、静かで確かな道ですから。
