覚悟したのに、技ができない——記憶のないあの頃と、今の私
「よく看護師なんてやってたね。人様の糞尿なんて私には無理。」
道場に通う85歳の山田さんが、ふとしたときに言った。
私は少し考えて、「ああ、そうかもな」と思った。
でも同時に、どこか引っかかるものもあった。
なぜなら、私にはその“すごさ”を自覚した記憶が、ほとんどないからだ。
当たり前すぎて、何も覚えていない
排泄ケアも、出血の処置も、当たり前のようにやっていた。
やりたくないとも思わなかったし、特別だとも思っていなかった。
ただ、やるべきこととしてやっていた。
それで気づいたのは、記憶がほとんど残っていないということ。
不思議と、学生の頃に初めて見た手術や摘便の見学の方が、今でも鮮明に覚えている。
なんでなんだろう。
それを考えていて、一つだけ思ったのが、
たぶん、あの頃の私はもう「覚悟が決まってた」のだ。
「覚悟した瞬間」から、記憶は外れていく
考えた末に気づいたのは、
あのとき私はきっと、もう「腹をくくっていた」ということだ。
決意とか気合いとかじゃない。
「戻れない」と体の中で静かに納得した感覚。
覚悟が決まると、感情や記憶が後ろに下がる。
やるとかやらないとかではなく、
「ここに立つ」と決めた状態だけが、自分を支えていた。
合氣道では、覚悟しても、技がかからない
看護師を辞めて武道家になる、かなりの覚悟だ
しかし不思議なことに、今の私はそのときよりずっと揺れている。
稽古をしても、技がうまくいかない。
中心が取れない。間合いが掴めない。身体が鈍い。
「覚悟すればできる」と、どこかで思っていた自分がいた。
でも現実は違った。
覚悟しただけでは、できるようにはならなかった。
それでも、覚悟がなければ向き合い続けられない
合氣道は正直だ。
「できたフリ」は効かない。
逃げようとすれば、技が返ってくる。
だからこそ、稽古の中では、
自分の甘さや未熟さを、毎回突きつけられる。
それでもやめない、という構えだけが、
自分がここにいる理由になる。
稽古は、日常の中の「戻らない練習」かもしれない
現代は、いつでもやめられる世界だ。
SNSを閉じ、関係を切り、違和感からすぐに離れられる。
それは便利で優しいけれど、
ときに自分が“逃げ続けている”ことに気づかなくなる。
合氣道の稽古は、その逆にある。
やめないで、そこに居続けるという選択。
失敗しても、恥をかいても、それでも「今日は立つ」と決める場所。
うまくできないままでも、前に出る
私は、今でも毎回の稽古が不安だ。
思うようにできない自分を、何度も見てきた。
でも、それでもいいと思っている。
技がうまくなるために稽古をしているのではない。
自分がやめないという“継続力”を育てるために稽古をしている。
それが、いつか形になることを信じて、
今日もまた、道場に立つ。