「少年老い易く学成り難し」を前にして ──武道家が晩年に気づく“学びの本質”とは──

「少年老い易く学成り難し」を前にして

──武道家が晩年に気づく“学びの本質”とは──

序:この歳になって思う「学び」と「無常」

「少年老い易く学成り難し」といいますが、果たして本当でしょうか。
私は今年六十五歳になり、痴呆が顕著となる前の七十歳までに、人生の整理を終えようと考えました。

亡き両親の痴呆には悩みも困りもしたので、妻子に迷惑をかけたくない。
そんな思いから、まず名刺の整理に手を付けました。

大学同窓会、楽心館、武道界、会社関係――
名刺を並べていくと、物故者の名が目に入り、どうしても手が止まります。

数日前に喪中の知らせが届いた同窓生の名刺も出てきました。
肩書きと勤務先が印刷されており、彼が就職を決めた時のやり取りを思い出します。
抗癌剤開発に関わる夢を語っていた彼が、こんなに早く逝ってしまうとは……無常です。

しかし、それは私の感慨にすぎません。
本人が「我が人生は満足だった」と思えたのなら、それはそれで天晴れです。


1. 若い日の“取り残され感”と武道の道

──同級生の進路と、自分だけの孤独な決断──

彼ら同級生が次々と進路を決めていく中、
私はぼんやりと「生涯、武道に身を投じたい」と思っていました。

就職する気はさらさらなかったのに、どこか後ろめたい寂しさがあった。
現実離れした構想を胸に抱きながらも、どこか孤独だったのです。

あれから四十年余り。
片隅の町道場の運営に辛酸をなめつつ、多くの方の助けを得て、今があります。

「夢のように過ぎた」とはこのことか。
時間の速さと出来事の多さが、奇妙な錯覚として胸に残ります。

この先、私は無常の中にも「生き切った」と思えるのか。
それが今の問いです。


2. 若さが奪われるのではなく、「学ぶ時間」が減っていく

──勢いで誤魔化せた時代は、実は“学びの空白”でもあった──

若いころは、力・速さ・勢いで誤魔化せてしまう。
氣を撥する動作も、体力が埋めてくれるだけで、本質ではありません。

技は勢いではなく、
“揺れる若草のような自然の理”で動くものだと気づいた頃には、
すでに青年期は過ぎていました。

「あの頃にもっと深く学べたはずだ」
「もっと素直に、耳を澄ませればよかった」
「視点を変えていれば、気づけたものがあった」

そう思う瞬間が必ず訪れます。

若さとは、学びの視点が偏ったまま前へ突き進んでしまう時間でもあったのです。


3. 理を悟るほど、“学び残し”がくっきり浮かび上がる

──浅山一傳流・大東流・古流剣術が教えてくれたこと──

浅山一傳流、大東流、古流剣術の理合を深めるほど、
そして“合氣とは何か”を体で理解するほど、
自分の学びの浅さが、驚くほど鮮明になります。

年月を重ねた分だけ、
「もっと早く気づけたはずなのに」という悔しさも増える。

しかし、それこそが「少年老い易く学成り難し」の真意なのでしょう。
学びが深まるほど、学びの不足が見えてくる。

だから武道家は、生涯学び続ける運命から逃れられないのだと思います。


4. 楽心館は“私自身の学び残し”を次代へ渡す場所

──道場とは、反省と気づきが形になったもの──

楽心館を立ち上げたとき、私は合氣道を教えたいと思ったわけではありませんでした。
むしろ、「自分は何も掴んでいない」という自覚があった。
皆さんと一緒に稽古したかっただけなのです。

振り返れば、
自分が何を学び損ね、何に気づくのが遅れ、何に向き合い切れなかったか――
その“反省の総量”が、道場という形になって現れたのだと思います。

子ども、社会人、熟練者、迷いを抱えた人々。
彼らに技を教える時、私は技術だけでなく、
「学ぶことの残酷さ」と「学び続けることの救い」を一緒に手渡してきました。

だからこそ私は言いたいのです。

「自分は遅れた、自分は学んでいない」と気づくことこそ、人生の宝である。


5. “老い易く学成り難し”を受け入れた時、心は静かになる

──完成なき武の道は、むしろ救いである──

この言葉は恐ろしい警句のようですが、
実は、武人にとっての“救いの言葉”でもあります。

武の道には完成がない。

だからこそ、
老いを迎えようとも、学びは続けられる。

むしろ毎日の稽古が、自分の成長の振り返りであり、未踏地点の明確化です。

遅れを自覚したその瞬間から、
人の修行は、本当の意味で始まるのです。


結び:未踏地点があるから、武の道は美しい

──「完成はない」。その事実こそ、生きる価値──

—「学びは遅れる。未踏地点は遥かに遠く。だからこそ、生きる価値がある。完成はありません」

私は楽心館代表としての役割を終えましたが、
個人としての学びは続いています。

若い頃の“学び残し”も、いまでは尊い蓄積です。

楽心館は、私の後悔の象徴ではありません。
学び続けたいという意志が形になった場所です。

その意志が続くかぎり、
私はいつの日か「生き切った」と静かに思えるのかもしれません。

答えのない世界を、今日も歩いています。
“少年老い易く学成り難し”。
この言葉を噛みしめるほどに、
私と楽心館の歩みは、これからも続きます。

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